■江戸時代(幕藩体制の動揺〜化政文化)
■江戸時代■
(その3)
1.江戸幕府の成立 2.封建的身分制度の確立 3.江戸幕府の外交
4.寛永期の文化 5.文治政治への転換 6.経済の発達
7.元禄文化 8.幕藩体制の動揺 9.享保の改革
10.寛政の改革 11.列強の日本接近 12.天保の改革
13.化政文化 14.開国・開港 15.討幕運動
16.幕末の社会と文化



 ■8.幕藩体制の動揺


1.武士の窮乏
 (1) 幕府の窮乏
  A.財政窮乏の要因…とくに綱吉以降(窮乏は家綱から始まる)
   (a) 幕府収入の減少
    ・鉱山収入の減少…金銀の採掘量の減少(枯渇)、銅も江戸時代後半には次第に減少
    ・貿易収入の減少…鎖国の影響
    ・天災飢饉の多発
   (b) 出費の増大
    ・生活の奢侈化、生類憐みの令などによる浪費、寺院の造営・修理
    ・制度・儀礼の整備に伴う出費増大
    ・度重なる江戸の大火後の復興費用
  B.窮乏に対する方策
   (a) 年貢収納の強化…吉宗が実施
    ・定免法の採用(←検見法)
    ・収納率の向上…五公五民(←四公六民)
   (b) 新田開発…吉宗以後盛んに実施
   (c) 貨幣改鋳による出目…綱吉治世の荻原重秀が最初、18世紀半ば以降恒常化
   (d) 御用金…名目上は歳入不足を補うために臨時に御用商人から募った借入金
    ・本来返還されるべき性格の金銭であるが、しばしば返還されず、事実上の献金
    ・宝暦年間(1751)以来18回、1回の最高総額500万両
   (e) 冥加・運上(商人に対する営業税)の賦課…田沼意次以後盛んに実施
 (2) 諸藩の窮乏
  A.財政窮乏の要因
   (a) 参勤費用の増大
    ・参勤交代の道中費用
    ・江戸藩邸の維持費用(大名の消費生活を含む)…とくに重い負担
   (b) 鉱山収入なし、貨幣鋳造権なし ←良質な鉱山は事実上幕府が独占、貨幣鋳造権は幕府が独占
  B.窮乏に対する対策
   (a) 支出の切り詰め
    ・俸禄の借上…家臣の収入を藩主が借り上げる(事実上の給料カット)
    ・家臣の減封…家臣の給料の引き下げ        ※半知…知行高の半分を減じる
   (b) 収入の増加
    ・年貢収納の強化…一定以上の引き上げは困難
    ・新田開発
    ・殖産興業政策…特産品づくり
      専売制の実施…藩内の特産品(塩<江戸前期から>、木綿・紙など<江戸中期以降>)に対して
      運上金の賦課…藩内の特産品に対して
    ・御用金の賦課
    ・大名貸にたよる…年貢を担保に商人から借金
 (3) 武士の窮乏
  A.生活窮乏の要因
   (a) 物価上昇による支出増…インフレの原因は貨幣改鋳や、商業の発達
   (b) 収入の減少
    ・借上…事実上の給料カット(主君が家臣の俸禄を借り上げるの意)
    ・藩主による知行減少(知行高が半減(半知)されることもあり)
   (c) 生活の奢侈化
  B.窮乏への対策
   (a) 先祖伝来の武具の売却・質入れ(享保期には一般化)
   (b) 借金(御家人などは札差などから)
   (c) 内職…傘張り・提灯作り、金魚屋・植木屋、茶の湯の指南、高利貸・博徒の用心棒など
   (d) 御家人株の売却
    ・養子による身分売却と借金の肩代わり(町人を養子に迎えるかわりに借金を払ってもらう)


2.農村の分解
 (1) 農村の分解…封建社会の基盤である農村の根幹的構造の変化
  A.崩壊前の農村
   (a) 農村の中心は本百姓(江戸初期には理論的には水呑百姓はいないはず)
     ※検地帳にはその土地の直接耕作者が記載されたがゆえに
   (b) 本百姓が年貢を貢納(検地帳に記載されたがゆえに)
   (c) 自給自足の農村経済
  B.崩壊した農村(18世紀以降)
   (a) 本百姓の困窮化 → 小作人(水呑百姓)化
    ・あるいは年季奉公や日用稼ぎに従事(さらに貨幣経済に巻き込まれる)
   (b) 寄生地主の出現
   (c) 自給自足の農村経済の崩壊(貨幣経済の浸透)
 (2) 農村分解の要因…農村の自給自足経済の崩壊、百姓の困窮化をもたらしたもの
  A.領主による過重な貢租…財政窮乏に対して幕府・諸藩とも貢租負担を増徴
  B.天災飢饉の頻発
   (a) 江戸期の凶作130回(うち大飢饉21回) → 時代が下るほど慢性的・周期的
   (b) 江戸時代の三大飢饉
    ・享保の大飢饉(1732(享保17)…吉宗の在任中
      西日本一帯にうんか害、作柄3分作、餓死者12,000人
    ・天明の大飢饉(1782〜87(天明2〜7)) → 寛政の改革(1788〜93)実施へ
      冷害が始まる(1782)、浅間山噴火(1783)、以後も続く
      東北地方に冷害、津軽藩の餓死・疫病死者130,000余人、耕地の2/3が荒廃(天明2〜4のみ)
      百姓一揆の頻発、都市では打ちこわし発生
    ・天保の大飢饉(1833〜39(天保4〜10)) → 天保の改革(1841〜43)実施へ
      全国的に天候不順・冷害、全国平均で3〜4分作
   (c) その他の天災…江戸時代後半は地震の活動期か
    ・地震の頻発
    ・火山の噴火…例:浅間山(1783)、富士山、桜島など
  C.農村への貨幣経済の浸透=自給自足経済の崩壊
   (a) 百姓の貨幣需要の増大…貢租の金納、金肥の購入、日用品の購入など
   (b) 商業資本の流入…問屋制家内工業の農村での普及
   (c) 商品作物栽培などの失敗による借金など
 (3) 農村崩壊の影響
  A.農村人口の停滞・減少…江戸中期以降は2600〜2700万人前後で停滞
   (a) 間引の一般化
   (b) 農村からの離村 → 都市への流入
  B.寄生地主の出現=農村の階層分化(貧富の差)の拡大
   (a) 「寄生地主」
    ・一部有力な百姓(村役人クラス)が、生活に困窮する本百姓から土地を買い集め、自らは農業経営をし
     ないで土地を小作人に貸し付け、高額現物の小作料を徴収する地主のこと
    ・江戸後期〜昭和前期の基本的な農村構造  → 戦後の農地改革で消滅
   (b) 寄生地主の成立過程
    ・江戸時代初期…地主手作(広い田畑をもつ本百姓は隷属民や年季奉公人を使い自前で耕作)
    ・江戸時代中期〜…寄生地主の出現
   (c) 変化の要因…地主手作の不採算(年季奉公人の賃金、肥料代、農具代の高騰など) →
              → 都市の発展、商業経済の発展、農村への商業資本の流入
  C.農村内における階層間の対立(寄生地主の出現を含めて) → 村方騒動の多発
   (a) 農村内における階層間の対立(寄生地主の出現を含めて) → 村方騒動の多発
    ・村方騒動……本百姓が村役人や富農層に小作料引下げや、名主の選挙制、村役人交代を要求
    ・一揆の頻発…江戸時代の一揆約3,200件
   (b) 「豪農」の出現


3.百姓一揆
 (1) 「百姓一揆」
  A.百姓の幕藩権力に対する抵抗運動、本来は統制のとれた集団行動
  B.時代によって内容(件数、規模、形態など)に大きな差=農村の崩壊状況の反映
   (a) 件数…判明しているもので総件約3,200件、後期に急速に増加
   (b) 規模…時代が下るほど大規模化
   (c) 特徴
    ・前期(17世紀〜18世紀初頭)
      武力蜂起、逃散・愁訴など中世的一揆の名残が残る(17世紀前半)
      代表越訴型が主流(17世紀後半〜18世紀初頭)
    ・中期(18世紀初頭〜18世紀後半)
      惣百姓一揆の出現(一揆の大規模化)
      村方騒動の発生 ← 農村崩壊の進展
    ・後期(19世紀〜)
      暴動的性格の強まり
      打ちこわし(都市における無統制な集団暴動)の発生
      世直し一揆(社会の変革をもとめる一揆)の発生
 (2) 百姓一揆の推移
  A.前期(幕藩体制の安定期)−17世紀〜18世紀初(約120年間)
   (a) 件数的には少ない(500件程度)
   (b) 一揆規模は小さい(島原の乱(1637)は例外的)
   (c) 一揆の形態…武力蜂起、愁訴・逃散 →(島原の乱)→ 代表越訴型
    ・武力蜂起…武士を交えて徳川氏の支配に武力で抵抗(例:島原の乱)
    ・愁訴
    ・逃散…百姓がそろって他領に離散
   以上は中世的一揆の名残(江戸時代は怖くてできない)
    ・代表越訴型…村役人が村民を代表して領主の非法を訴える(島原の乱後に増加)
       <例>  佐倉惣五郎(下総)、磔茂左衛門(上野沼田)、松木庄左衛門(若狭)など…「義民」
       <要因> 村役人層と一般百姓の利害の一致(農村の階層分化はこの段階では未進行)
       <結末> 多くは領主の弾圧の前に敗北
   (d) 要求…検地や年貢増徴に反対
  B.中期(幕藩体制の動揺期)−18世紀初頭〜18世紀後半(約70年間)…急速に農村は分解
   (a) 件数的にはやや増加傾向(660件程度)
   (b) 一揆規模の大規模化 → 惣百姓一揆(国や藩領全体に及ぶ一揆)の出現
    ・惣百姓一揆…成長した百姓が中心となり村落・藩を乗り越えて広範に団結した一揆
万石騒動(安房、1711) 600人
御蔵入騒動(会津、1720) 700人
質地騒動(越後、1722) 2,000人
津山の藩内一揆(1726) 3,000人
磐城平一揆(1739) 20,000人
久留米一揆(1754) 200,000人
   (c) 一揆の組織強化、戦術の巧妙化  → 一揆側の勝利もあり
   (d) 政治的・経済的色彩の強まり  ←前期は代官などの非法や、年貢軽減を求める要求が主流
    ・専売制の反対、運上金の徴収反対、借金・借地に対する徳政要求など
   (e) 村方騒動の増加…農村の分解に伴い、村役人・地主層と平百姓との立場が対立
    ・村方騒動…平百姓が村役人や富農層に小作料引下げや、名主の選挙制、村役人交代を要求
  C.後期(幕藩体制の崩壊期)−18世紀末〜幕末(約90年間)…飢饉頻発して農村生活を破壊
   (a) 急速に増加(1500余件発生)
    ・天明期・天保期に頻発  ←天明の大飢饉・天保の大飢饉
    ・開港後に頻発  ←開港に伴う経済的混乱
    ・1866(慶応2)年 ←第二次長州征伐に伴う米の買い占め
   (b) 村方騒動の頻発化…農村の分解に伴い、村役人・地主層と平百姓との立場が対立
   (c) 国訴の登場…在郷商人の指導による領主・特権商人の流通独占に反対する訴訟
    ・1823年の綿作・菜種をめぐる摂津・河内の国訴が最初、生産物の自由販売や干鰯値下げを要求、
     参加した村は1000ヶ村にのぼる
   (d) 一揆の暴動的性格の強まり
    ・要因…農村の分解に伴い村役人・地主層が一揆から遊離(支配者側に付く) →
         → 貧農の孤立化 → 無統制な暴動化
   (e) 打ちこわしの多発
    ・打ちこわし…都市における無統制な集団暴動
    ・発生の要因…物価高騰(とくに米価)、飢饉
   (f) 「ええじないか」の発生(1867秋〜冬)…民衆狂乱(集団ヒステリー)
   (g) 世直し一揆の登場(幕末)…百姓一揆に反封建闘争的性格が表出
    ・世直し…政治・経済面での社会の革新、封建社会を否定、土地の再配分など
 (3) 百姓一揆の意義
  A.封建社会の基盤を動揺させる
  B.討幕運動には直接結びつかない(世直し一揆の発生があったにしても) →倒幕は(下級)武士の手で
   (a) 理由…あくまで一揆は一時的、分散的であって結束力が弱い
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 ■9.享保の改革


1.享保の改革(8代将軍吉宗の政治)
 (1) 吉宗政治(享保の改革)の性格
  A.復古理想主義…「諸事権現様(家康)御定めの通り」  → やがて新しい政策を実施
  B.将軍独裁体制の確立…側近政治から将軍の政治権力を回復
  C.財政再建…最大の課題
  D.商業資本の掌握…流通・物価の統制、運上・冥加の賦課
 (2) 施策
  A.財政再建…享保の中頃までに100万両の黒字(一応成功)
   (a) 倹約令(数度にわたる)…武士・一般庶民らに支出抑制・生活緊縮、士風の引き締め
   (b) 上げ米の制(1722→1730廃止)
    ・諸大名から1万石について100石の米を献上、かわりに江戸参勤期間を半年だけ短縮
      江戸在府1年半、国許半年となる
    ・幕府は年18万7000石の収入増(幕府の年貢収入の1割)
    ・「御恥辱も顧みず」 → 幕府の財政状況が改善されると廃止(1730廃止)
   (c) 新田開発(1722〜)
    ・町人請負新田の奨励…日本橋に新田開発の高札をたて有力商人の協力をもとめる
      例:武蔵見沼の干拓、越後紫雲寺潟の干拓、下総佐倉の干拓など
   (d) 定免法の採用(1722)…一定期間租率を固定  ←検見法の廃止
   (e) 租率の引き上げ…五公五民 ← 四公六民
   (f) 商品作物の栽培の奨励…菜種、甘藷(さつまいも)、甘蔗(さとうきび)、櫨、朝鮮人参など
  B.産業開発
   (a) 新田開発
   (b) 商品作物の栽培の奨励
    ・菜種、甘藷(さつまいも)、甘蔗(さとうきび)、櫨、朝鮮人参など
    ・青木昆陽(1698〜1769)に甘藷の栽培を研究させる
   (c) 漢訳洋書の輸入(1720)  ←禁書令で禁止(1630)
    ・キリスト教と無関係なものに限定 → 西洋に優れた知識・技術のみを導入(思想はダメ)
    ・青木昆陽にオランダ語を学ばせる
  C.経済政策
   (a) 株仲間の結成を公認(堂島米市場も)  ←「仲間」の黙認
    ・「株仲間」…幕府による営業の独占権を認められた「仲間」(問屋商人による同業者団体)
      ※株…幕府によって認められた営業の独占権
    ・幕府の公認理由
      物価の調節(とくに米価)、物資の流通を幕府の支配下におく
      運上金、冥加金(営業税)の賦課
   (b) 米価安定に苦心…「米将軍(米公方)」の悪評
    ・安定の必要性…米価下落→武士の家計圧迫、米価高騰→庶民の暮らしを直撃
    ・不安定要因…豊凶による米需給量の変動、米商人の投機的取引、貨幣相場の不安定など
   (c) 享保・元文金銀の鋳造…享保小判は正徳小判とほぼ同質
   (d) 質流地禁止令(1722)…質流れの形での田畑売買の禁止 →
             → 越後や出羽で質地騒動(質流れ地の取り戻し)発生、撤回(1723)
    ・撤回により質流れの形での田畑売買を黙認(農村における地主・富農の存在も黙認)
  D.政治の刷新
   (a) 足高の制(1723)…人材の登用、経費節減
    ・旗本などが幕府の要職に就いた場合、在任中だけ役職の標準禄高に不足する禄高(役料)を加給、やめ
     れば禄高をもとに戻す(知行は実際は家禄としての性格が強かった)
      役職の標準禄高の例…大番頭5000石、大目付・町奉行・勘定奉行3000石など
    ・登用された人材  ←足高の制
      大岡忠相(1677〜1751)…町奉行
      田中丘隅(民間人、1622〜1729)…勘定格代官、著作「民間省要」(1721)
      神尾春央…勘定奉行
   (b) 法制の整備
    ・町奉行に大岡忠相(1677〜1751)を登用(1717)
    ・「公事方御定書」(上下2巻)の作成…行政、裁判の基準
      上巻( 81箇条)…司法、警察などの規定
      下巻(103箇条)…刑法の規定(御定書百箇条)
       みせしめ主義から教化主義へ…連座制の緩和、拷問の制限、刑罰の緩和など
       主従関係を乱すものは厳罰
       10両以上の金品を盗んだものは死刑
    ・「御触書寛保集成」の編纂…幕初以来の触書を分類集成
   (c) 目安箱の設置(1721)…一般人の投書の受付
    ・評定所の門前に目安箱を設置、一般人からの投書を受け付け(月3回)、自ら開封
    ・目安箱によって実現した制度
      江戸の「いろは」47組の町火消(町人の火消し)の設置  ←定火消(武士の火消し)とは別
      広小路などの防火施設の整備
      小石川養生所を設置…貧民救済
   (d) 相対済し令(1719など)
     ・奉行所で金銭貸借(金公事)に対する訴訟をとり上げない、当事者間で解決
       例:1718年の町奉行所扱いの訴訟(35,790件)中、金公事は33,037件(約92%)
         処理できた件数11,651件(約33%)のみ → 奉行所は機能停止状態
     ・人々のとらえ方
       幕府側の目的…裁判事務の簡素化(機能回復)、旗本・御家人の窮乏の救済
       一般庶民の捉え方…債務者(武士)の不払い黙認=強い不満 → 廃止(1729)
  E.文教政策
   (a) 侍講として室鳩巣(朱子学京学)、荻生徂徠(古学)を登用
    ・「六諭衍義大意」…吉宗の命で室鳩巣が作成、明の太祖の「六諭衍義」(民衆教化の文章)の要約
   (b) 漢訳洋書の輸入(1720)  ←禁書令で禁止(1630)
 (3) 結果…かなりの成果
  A.幕府の権威回復
  B.財政の安定…財政黒字転換(1735)、年貢収納高幕府最高額(1744)、享保中期100万両の黒字
  C.社会の動揺…厳しい統制を受けた農民や町人の不満増大
   (a) 享保の大飢饉(1732(享保17))
   (b) 農村の疲弊と分解 → 百姓一揆の増大
   (c) 米価変動 → 米将軍、都市で打こわし発生(1733〜)


2.田沼時代(田沼意次の政治)
 (1) 田沼時代(1767〜86)≒10代家治の時代(1760〜86)…明和、安永、天明年間
  A.田沼意次(1719〜88)
   (a) 9代家重(任1745〜60)の小姓、側用人から出世
   (b) 10代家治(任1760〜86、家重の子、無気力)のとき老中となる → 幕政の実権掌握
  B.田沼政治の方向性…封建社会においては革新的方向
   ・現実主義・吉宗政治の継承 → 殖産興業政策、商業資本の利用=町人が得ていた利益を幕府が獲得
     → 享保の改革(吉宗政治)の帰結・賄賂の横行(商業資本との結びつき)
 (2) 政策…殖産興業、商業資本を利用して幕府の収入増をはかる
  A.株仲間の結成の奨励(積極的承認)…冥加・運上の増徴
  B.専売制度の拡張…冥加・運上の徴収、貿易品の統制
   (a) 幕府直営の座を設置…銀座、銅座、真鍮座、鉄座、朝鮮人参座、朱座など
   (b) 特定の御用商人に専売権を与える
  C.貨幣制度…金を中心とする貨幣制度への一本化
   (a) 初の定量計数銀貨の鋳造…南鐐弐(二)朱銀の大量鋳造(1772〜80、安永年間)
    ※南鐐…上質な銀のこと、南鐐弐(二)朱銀は金2朱として通用
  D.長崎貿易の制限緩和
   (a) 銅での支払い奨励(銅の増産は成果あがらず)
     → 俵物(いりこ(乾燥ナマコ)・干しアワビ・フカのひれ)・昆布の輸出奨励
   (b) オランダから金銀を輸入
   (c) 銅座、俵物会所を設置…輸出の奨励
  E.開発計画
   (a) 印旛沼・手賀沼の干拓計画(1782〜86) → 意次の失脚と利根川の大洪水で頓挫
    ・印旛沼・手賀沼の干拓、印旛沼・手賀沼から掘割をつくって江戸湾と結ぶことを計画
      → 新田開発、水運の便、利根川の洪水防止の一石三鳥を狙う(戦後になって完成)
   (b) 蝦夷地の開発、ロシア人との交易計画 → 意次の失脚により頓挫
    ・仙台藩医工藤平助(1734〜1800)の著「赤蝦夷風説考」に刺激
      ※赤蝦夷=ロシア人
      ※「赤蝦夷風説考」…ロシア進出の実状と積極的な対露貿易の必要性を説く
    ・最上徳内らの調査隊を千島方面に派遣、石狩平野開発とロシア交易の可能性調査(1785〜)
 (3) 結果
  A.賄賂政治の不評  ←株仲間による独占
  B.天災の頻発…天明の大飢饉(1782〜87)、浅間山の噴火(1783)、江戸の大火など
  C.百姓一揆、打ちこわしの頻発
 (4) 結末
  A.田沼意知(意次の子)、江戸城中で旗本佐野政言によって暗殺(1784) →
    → 政言は民衆から「世直し大明神」と称される
  B.10代家治の死 → 田沼意次、老中を罷免(1786)
 田沼時代の天災
  1969(明和6) 九州大地震
  1770(明和7) 旱魃(〜71)
  1772(明和9安永1) 江戸大火、洪水
  1773(安永2) 疫病流行
  1779(安永8) 桜島噴火
  1782(天明2) 天明の大飢饉(〜87)
  1783(天明3) 浅間山噴火、霜害
  1786(天明6) 関東大水害、江戸大火
    ※田沼が悪いわけではないけれど…
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 ■10.寛政の改革


1.寛政の改革
 (1) 寛政の改革=松平定信(老中在任期間:1787〜93)…11代将軍家斉(任1786〜1837)の補佐
  A.松平定信(1758〜1829)
   (a) 三卿の一つ田安宗武の子、吉宗の孫、田安家から白河松平家へ養子に入り白河藩主となる
   (b) 老中就任前から名君の評判が高い(天明の大飢饉では領内から餓死者も出さなかった)
   (c) 清廉潔白な性格 → 賄賂禁止、綱紀粛正を指示
   (d) 定信の著作…「宇下人言」(定信の自叙伝、寛政の改革に詳しい)、「花月草紙」(随筆)
  B.寛政の改革の契機…天明の大飢饉(1782〜87(天明2〜7))
   ・とくに1787.5、江戸・大坂など全国主要30あまりの都市で打ちこわし頻発(天明の打ちこわし)が契機
  C.寛政の改革の方向性…(田沼意次の政治と比べて)逆コース的な傾向
   (a) 田沼政治の否定、復古的理想主義…享保の改革を目標
   (b) 農村の維持
   (c) 商業資本の抑圧
   (d) 風俗の取り締まり
 (2) 施策
  A.経済政策
   (a) 倹約令…皇室、大名・旗本・町人・農民に至るまで倹約を要求、大奥の経費を2/3に減
   (b) 棄捐令(1789)…旗本・御家人のために札差の借金を破棄させる(事実上の徳政令)
    ・6年以前(1791年)の借金をすべて破棄、以後のものは低利(年6分(6%))で年賦返済
    ・札差には低利融資も実施
    ・債権者は金融拒否をもって報復  → 武士の窮乏はかえって加速
    ・天保の改革でも実施(1843)
   (c) 田沼政治の転換
    ・田沼時代の銅・鉄などの座や、一部の特権的仲間を廃止
    ・長崎貿易の制限
  B.農村の維持…貨幣経済の発展を抑制して農村経済を守る(保守的な傾向)
   (a) 出稼ぎの制限
   (b) 公金貸付による荒廃した耕地の復旧
   (c) 生業をもたない都市生活者には資金を与えて帰村を奨励(旧里帰農令) ※人返しの法(天保の改革)
   (d) 伝馬役(助郷役)の軽減
   (e) 植林、治水、開墾などの奨励
  C.社会政策
   (a) 勘定所御用達の採用(10名)…両替商を中心とする豪商の登用
   (b) 飢饉対策
    ・囲米(荒備貯蓄のための米穀の貯蔵、1万石につき50石の米穀)を諸藩に対して命令
    ・農村・都市に社倉・義倉を設置
      社倉…住民が分相応に穀物を拠出、籾で貯穀
      義倉…裕福者の義捐や課税により拠出、籾で貯穀
    ・七分積金(七分金積立法、江戸)
      町入用(町費)の節約分の7割(70%)を町会所で積み立て、中下層民への低利融資で増殖、その利子
      を貧民救済に利用、幕府も2万両を拠出
   (c) 都市の治安対策
    ・人足寄場を江戸石川島に設置(1790)…火附盗賊改長谷川平蔵の発案
      無宿者や軽犯罪者を収容、職業授産を行う → かなりの成果
  D.風俗の矯正
   (a) 文武両道の奨励、士風の振起、綱紀の粛正
   (b) 女髪結、男女混浴の禁止
   (c) 出版統制
    ・洒落本の作者山東京伝(1761〜1816)を手鎖50日間の刑に処す
    ・黄表紙の作者恋川春町
    ・出版元の蔦屋重三郎
      ※天保の改革における人情本(為永春水)、合巻(柳亭種彦)への統制
    ・海防を説く林子平(「三国通覧図説」「海国兵談」を著述)を幕政への批判者として弾圧
  E.言論・思想の統制
   (a) 寛政異学の禁(1790)…古学派・折衷学派などにおされた朱子学の復興を目指す学制改革
    ・朱子学を正学とし、それ以外の儒学を異学と規定
    ・聖堂学問所では朱子学以外の学派は講義させず、官吏登用試験も朱子学で実施
      18世紀後半には古学派や折衷学派、考証学派の講義もあり
    ・柴野栗山(1736)、尾藤二州(1745〜1813)、岡田寒泉(1740〜1816)<寒泉の代官転出に伴い古賀
     精里(1750〜1817)と交代>を儒官に任命(寛政の三博士)
    ・半官半民(幕府と林家)の聖堂学問所を、昌平坂学問所(昌平黌)として官立(幕府立)の正式な
     学校とする(1798)
   (b) 林子平の禁固(1792)…著書が咎められ発禁処分、禁固刑
    ・林子平(1738〜93)…仙台の人、長崎で海外事情を聞く、「海国兵談」「三国通覧図説」著作
      「海国兵談」(1791)…ロシアの南下を警戒、海防論を展開 →ラックスマン根室来航(1792)
      「三国通覧図説」(1786)…地理書、日本を中心に朝鮮、琉球、蝦夷地を図示解説
  F.海防の強化…定信自身は海防の必要性を痛感している(民間人に論じられるのは好まない)
   (a) 諸藩に海防を厳重にすることを命じる
   (b) 定信自ら伊豆、相模を巡視
 (3) 結果・結末…あまり効果は上げられないまま定信、失脚
  A.厳しい統制や倹約の強要による民衆の反発
  B.経費節減に対する大奥女中との対立
  C.尊号一件(1792)…定信失脚の直接的原因、朝廷との協調関係の崩壊
    ・朝廷、光格天皇の実父閑院宮典仁親王に太上天皇の尊号をしたいと申出(1789) →
      → 定信、拒否 → 武家伝奏ら、再び申出 →
        → 武家伝奏らを処分(理由・武家伝奏は公家でも幕府側に付くべき)(1792)
    ・家斉、実父一橋治成を大御所として迎えようと計画 → 尊号一件の経緯から定信拒否 →
      → 家斉と定信の関係悪化 → 定信、失脚へ


2.寛政の藩政改革
 (1) 特色
  A.政策
   (a) 藩財政の建て直し → 商業資本との結びつき
    ・国産奨励(殖産興業)
    ・専売制の強化…商業利潤獲得を目的に物資の生産販売独占、50余藩で実施、70品目に及ぶ
      米沢藩(織物)、松江藩(鉄、人参)、佐賀藩(陶器)、鹿児島藩(黒砂糖)、津和野藩(紙)、熊本藩(櫨)
   (b) 藩学の設立…人材育成
  B.東北諸藩が中心
  C.藩主による改革     ※天保の藩政改革では下級藩士が台頭
 (2) 名君の登場と改革…特産物生産の奨励、藩学の設立
  A.細川重賢(銀台、1720〜85)…熊本藩主、田沼時代の改革
   (a) 人材登用、職制の整備、財政の緊縮、農村復興など広範な改革
   (b) 国産品の奨励…櫨の栽培、蝋の専売制
   (c) 藩学時習館を設置
  B.上杉治憲(鷹山、1751〜1822)…米沢藩主、明和〜寛政の改革
   (a) 殖産興業策の実施…とくに養蚕・製糸業(米沢織など)
   (b) 藩学興譲館を設置
   (c) 門閥勢力の排斥
  C.佐竹義和(1775〜1815)…秋田藩主、寛政の改革(天明の大飢饉後藩政改革開始)
   (a) 特産品の生産を奨励、職制整備など
   (b) 藩学明徳館を設置
 藩政改革の流れ
  A.江戸中期以降、諸藩で藩政改革…財政再建、新田開発
  B.寛政の藩政改革(18世紀末)
   (a) 東北諸藩が中心…米沢藩、秋田藩など
   (b) 藩主自身による改革の指揮…細川重賢(熊本藩)、上杉治憲(米沢藩)、佐竹義和(秋田藩)
   (c) 内容
    ・国産奨励(殖産興業)と専売制の採用による財政再建
    ・藩学の設置
  C.天保の藩政改革(19世紀前半)  …→ 成功=西南雄藩の出現(明治維新の原動力)
   (a) 西南雄藩が中心…薩摩藩、長州藩、佐賀藩
   (b) 下級武士の登用による改革…調所広郷(薩摩)、村田清風(長州)
   (c) 内容
    ・専売制の強化
    ・軍制改革…洋風砲術・兵術の採用
  D.安政の藩政改革(開国(1854)以後)
   (a) 諸大藩が中心…越前藩、土佐藩など
   (b) 下級武士が中心
   (c) 内容…藩営貿易、軍制改革など
【戻る】


 

 ■11.列強の日本接近


1.世界情勢の変化
 (1) 欧米の状況
  A.市民革命の進展…絶対王政の打倒(17世紀後半〜18世紀)
   (a) イギリス…清教徒(ピューリタン)革命(1642)、名誉革命(1688)
   (b) アメリカ…アメリカ独立革命(1776)
   (c) フランス…フランス革命(1789〜1798)  → ナポレオンの登場
  B.ナポレオン時代(19世紀初頭)
   (a) ナポレオン、帝政を敷く(1804) → イギリス、ロシア、ナポレオンに対抗
 (2) 列強の東進…東アジアでは列強の勢力が拡大(目的は清国への進出)
  A.イギリス
   (a) 東インド会社によるインド経営(17世紀) → インドを実質的に支配(18世紀) →
      → インド帝国成立(1877) → 清国への進出
  B.フランス
   (a) インド獲得でイギリスに敗退(1757) → ナポレオン3世、インドシナ(現ベトナム付近)へ進出
  C.ロシア
   (a) シベリア地方へ国土拡大(17世紀) → 千島方面へ出現(18世紀初頭)
   (b) エカチェリーナ2世の南下政策(18世紀後半) → 清国への進出
    ・極東での不凍港の確保が目標
  D.アメリカ
   (a) アメリカ独立革命(1776) → 西部へ進出 → 太平洋岸へ国土拡大(19世紀中頃) →
      → 太平洋へ進出 …→ 日本近海に出没(中国への貿易船や捕鯨船の寄港地を求める)
    ▼各列強の進出地域や進出方向を確認せよ


2.列強の日本接近
 (1) ロシアの接近(18世紀後半〜)
  A.田沼時代(1767〜86)
   (a) 蝦夷地厚岸に来航し通商を求む、松前藩拒絶(1778)
   (b) 工藤平助、「赤蝦夷風説考」を著し、ロシア接近の実状と対露貿易の必要性を説く(1783)
   (c) 田沼意次、最上徳内を千島方面(国後島、択捉島、得撫島)の探検に派遣(1786)
  B.寛政(+享和)年間(1787〜1803)
   (a) 林子平、「海国兵談」を著し、ロシアの南下を警告、海防論を展開(1791) →子平、処罰
    ・子平、「三国通覧図説」(朝鮮・琉球・蝦夷地の状況を記す)を著す
   (b) ラックスマン、エカチェリーナ2世の使節として根室に来航し通商求む(1792)  ←子平の予想通り
    ・日本人漂流民大黒屋光太夫を送還
      大黒屋光太夫…伊勢の船頭、嵐で漂流中に救われ、女帝エカチェリーナ2世に謁見
       『北槎聞略』(桂川甫周)…大黒屋光太夫の見聞をまとめたもの
    ・幕府は鎖国の祖法を理由に通商を拒否
    ・ラクスマン、江戸湾入港を要求したが、以後の交渉は長崎において行うことを通告
   (c) 近藤重蔵・最上徳内を蝦夷地・南千島の探検に派遣(1798〜99)
   (d) 伊能忠敬、蝦夷地を測量(1800)
   (e) 東蝦夷地(北海道南半部)を幕府直轄地とする(1799) → 箱館奉行設置(1802、初め蝦夷奉行)
  C.文化年間(1804〜1817)
   (a) レザノフ、長崎に来航し通商を求む、幕府拒否(1804)
    ・以後、樺太や択捉島を攻撃
   (b) 西蝦夷地(北海道北半部)を直轄地とし、松前奉行設置(1807)=蝦夷地はすべて幕府直轄 →
      → 松前氏に還付(1821) → 再び幕府直轄領とする(1853)
   (c) 間宮林蔵、樺太の探検に派遣(1808)
    ・樺太(ナニオーまで到達)、沿海州に上陸、黒竜江を遡りデレンまで至る
    ・間宮海峡を発見(樺太は半島ではなく島であることを確認) → 「間宮海峡」の名称
   (d) ゴローウニン事件(1811)
    ・経過
      1811 国後島に上陸したロシア軍艦の艦長ゴローウニンを日本側が拿捕
      1812 ロシア側は報復措置として蝦夷地開発事業に従事していた高田屋嘉兵衛を連去る
      1813 事情を知った嘉兵衛は紛争解決に努力、幕府を説得しゴローウニンを釈放させ、解決
    ・解決時、ロシアと領土に関する初めての取り決めを行う
      千島列島は択捉島までは日本、新知島まではロシア、中間地域(得撫島など)は取決め
      「択捉島までは日本固有の領土」という日本政府の根拠のひとつ
    ・ゴローウニン著:「日本幽囚記」
    ・ロシアとの関係が改善された結果、直轄領たる蝦夷地を松前氏に還付(1821)
  D.幕末(嘉永年間)
   (a) プゥチャーチン、艦隊を率いて長崎に来航、開国を要求(1853.7) ←ペリー来航直後(1853.6)
   (b) プゥチャーチン、日米和親条約の報を聞いて再度来航、日露和親条約締結(1854)
    ・日露和親条約(1854)
      日米和親条約に準じる
      下田・箱館・長崎の開港
      領土規定…千島列島の択捉島と得撫島との間に日露国境を設定、樺太は「雑居地」
        ※「択捉島までは日本固有の領土」という日本政府の根拠のひとつ
 ロシアの接近(18世紀後半〜)
 1778 厚岸に来航、通商を求む         → 松前藩拒絶
 1792 ラックスマン、根室に来航、通商を求む  → 幕府拒絶
 1804 レザノフ、長崎に来航、通商を求む    → 幕府拒絶
 1811 ゴローウニン事件(1811→1813解決)    → 領土に関する取り決め
       ※択捉島までは日本、新知島まではロシア、中間地域(得撫島など)は取決めず
 1853 プゥチャーチン、長崎に来航、開国を要求 → 幕府引き取りを願う
 1854 プゥチャーチン、再度来航        → 日露和親条約締結、領土に関する取り決め
       ※千島列島の択捉島と得撫島との間に日露国境を設定、樺太は「雑居地」
 (2) イギリスの接近(19世紀初頭〜)…幕府の外交政策に大きな影響を与える
  A.文化・文政年間(1804〜30)
   (a) 文化の撫恤令(1806)…穏便な外国船への対処    ※恤=めぐむ
    ・外国船が来ても敵意がないことがわかれば薪水(燃料と食料)を与えて去らせる
   (b) フェートン号事件(1808)…幕府の警戒心はいやおうなく増大
    ・イギリス船フェートン号が突然長崎に乱入、オランダ商館員をとらえて人質にし、薪水の補給
     を強要し、補給後立ち去った事件、責任を負って長崎奉行松平康英自害、佐賀藩処罰
    ・江戸湾の防備を白河・会津両藩に命令(1810)
    ・以後、米英船の日本近海への来航が激しくなり、紛争が多発
      イギリス人ゴルドン、浦賀へ来航し、通商を求む(1818)
      捕鯨船、常陸や薩摩に来航して紛争発生(1824)
   (c) 異国船打払令(無二念打払令)(1825)…幕府の対外国船政策の転換、強硬策
    ・オランダ・清・朝鮮・琉球船以外は直ちに(無二念)撃退  ←文化の撫恤令からの転換
  B.天保年間(1830〜1843)
   (a) 清国、アヘン戦争(1840〜42)でイギリスに敗北(1842)
   (b) 天保の薪水給与令(1842)…幕府の対外国政策の再転換、柔軟策 ←アヘン戦争の結果を知る
    ・異国船打払令(無二念打払令)の廃止…この存在が国を返って危機に陥らせる可能性あり
    ・外国船に薪水(燃料と食料)を供与して穏やかに退去させる
  C.日英和親条約(1854.8)
 (3) アメリカの接近(19世紀中頃〜)…中国貿易の商船や捕鯨船の寄港地を日本に求める
  A.天保年間(1830〜1843)
   (a) モリソン号事件(1837)
    ・アメリカ商船モリソン号、漂流民を護送し浦賀来航、通商求む、浦賀で砲撃され退去 →
       → 鹿児島湾に向かう、薩摩山川で再び砲撃に遭い退去
   (b) 蛮社の獄(1839)…蘭学者の弾圧事件
    ・蘭学者の渡辺崋山、高野長英は著書でモリソン号に対する幕府の対応を批判(1838) →
      → 幕府はかれらの蘭学研究グループ(尚歯会)を弾圧
       渡辺崋山(1793〜1841)…三河田原藩の江戸家老、蘭学者、画家
        「慎機論」(1838)…外国事情の紹介からモリソン号打払いの無謀を説く、未定稿
       高野長英(1804〜50)…陸奥の水沢出身の町医者、シーボルトに医学蘭学を学ぶ
        「戊戌夢物語」(1838)…夢の中での知識人の討議の形でモリソン号打払いの無謀を説く
          ※文中では長英はモリソン号をイギリスの船と勘違い
    ・処罰…渡辺崋山は永蟄居(のち自害)、高野長英は永牢(火災に乗じて脱獄、追われて自殺)
  B.幕末(弘化・嘉永年間)
   (a) 東インド艦隊司令長官ビッドル、浦賀に来航、通商を要求(1846.閏5) →幕府拒否
   (b) 東インド艦隊司令長官ペリー、軍艦(黒船)4隻を率いて浦賀に来航(1853)
    ・幕府、ペリーの強硬姿勢におされ、フィルモア大統領の国書を受け取る
    ・回答を翌年に約束し、ペリーを退去させる
    ・ロシア使節プゥチャーチン、長崎に来日
   (c) ペリー、軍艦7隻を率いて再来航(1854) → 強硬態度に負け、日米和親条約締結(1854.3)
 (4) フランスの接近
  A.フランス船、琉球に来航し、薩摩藩と密貿易開始(1844)
 (5) オランダの動き
  A.オランダ国王ウィルレム2世、12代将軍家慶に親書をもって開国を勧める(1844) →幕府拒否
  B.日蘭和親条約(1955.12)
 外国との幕府対応の推移 【重要】
 1806 文化の撫恤令…柔軟策
       ↓
 1808 フェートン号事件=幕府の警戒心増大
       ↓
 1825 異国船打払令(無二念打払令)…強硬策への転換
       ↓
 1842 幕府、アヘン戦争(1840〜42)における清国の敗北を知る
       ↓
 1842 天保の薪水給与令…柔軟策への再転換
       ↓
 1854 日米和親条約の締結=鎖国政策の終わり

 アメリカの接近(19世紀中頃〜)
  1837 モリソン号事件(1837)  → 蛮社の獄(1839)
  1846 東インド艦隊司令長官ビッドル、浦賀に来航、通商を要求 →幕府拒否
  1853 東インド艦隊司令長官ペリー、浦賀に来航 → 翌年に回答するととし、退去を求む
  1854 ペリー、再来航(1854)  → 日米和親条約締結(1854)
【戻る】


 

 ■12.天保の改革


1.大御所時代(文化・文政時代)…家斉(11代将軍)の放漫政治
 (1) 大御所時代
  A.時期…寛政の改革(定信失脚)後の11代家斉の治世(1793〜1841)…寛政・文化・文政・天保の約50年間
   ※1737年に将軍職を家慶に譲るが、以後も大御所として実権掌握
  B.大御所時代の政治・社会情勢
   (a) 大御所家斉の放漫政治
   (b) 綱紀の乱れ…田沼時代以上の賄賂横行(老中水野忠成の政治)
   (c) 社会の享楽的風潮の一般化
   (d) ロシア、イギリス船の来航
   (e) 社会不安増大…百姓一揆・打ちこわしの頻発、関東の治安混乱(無宿者、博徒の横行)
  C.幕府の対策
   (a) 治安維持
    ・関東取締出役(八州廻り)の設置(1805)
      関東代官配下の役人の中から出役を選び、最初は8名で、2人1組となって関八州を巡回、領主の
      区別なく犯罪者や博徒の逮捕・取締を行う
    ・寄場組合の設置(1827)
      天領、私領、寺社領の区別をこえて近隣の村々を寄せ集め、協同して風俗や農村秩序の維持、関東
      取締出役の費用負担を行う
   (b) 財政対策(根本解決にならず)…豪商への御用金、度重なる貨幣の改鋳(改悪)
 (2) 大塩の乱(1837)
  A.大塩平八郎(1792〜1837)…大坂奉行所与力、陽明学者、隠居後は家塾洗心洞で陽明学を教える
   (a) 著書:「洗心洞剳記」
  B.原因
   (a) 天保の大飢饉(1833〜39)、とくに1836年の作柄はひどく全国平均3〜4分作
   (b) 商人の米の買い占め、幕府の米の江戸回送計画
  C.経過
   ・貧民救済を町奉行に申し出たが拒絶、平八郎は蔵書を売った金(660両)で米を施す
   ・商人の米買い占めを傍観、米の江戸回送を計画する町奉行に平八郎激怒
   ・富豪の襲撃、大坂城占領を計画 → 事前に漏れ、準備不十分のまま蜂起 →
     → 大坂の町の1/5(大阪城の西側)を焼失、半日で鎮圧
   ・平八郎は1カ月間の逃避行の末、追いつめられて自殺
  D.影響
   (a) 幕府にとって大きな衝撃(もと与力による公然の反乱) → 天保の改革の素地
   (b) 全国へ同様な反乱の波及
    ・生田万の乱(1837)…大塩門弟と名乗る国学者生田万が越後柏崎の代官所を襲撃
    ・江戸でも不穏な動き  → 幕府は救い小屋を設けて米・銭を施して未然に防止


2.天保の改革
 (1) 天保の改革(1841〜43)…老中水野忠邦(1794〜1851)、家斉死後の家慶(12代)の治世2年間
  A.天保の改革の契機
   (a) 天保の大飢饉(1833〜39(天保4〜10))…収穫は例年の半分以下、とくに1836年ひどく平均3〜4分作
    ・幕領における大規模一揆の発生…郡内騒動約80ヶ村1万人、加茂一揆約240ヶ村1万2千人参加
   (b) あいつぐ外国船の接近…ロシア船、イギリス船
   (c) 財政難…大御所時代のつけ
   (d) 1841(天保12)年、大御所家斉死、12代家慶就任
  B.天保の改革の方向性…寛政の改革と同方向、しかしそれ以上に反動的、強制的
   (a) 復古的理想主義(「享保・寛政の御政治向に相復し候様」)
   (b) 農村の維持…人返しの法など
   (c) 商業資本の直接支配…株仲間の解散
   (d) 政治力・軍事力の強化…上地令など
   (e) 風俗の取り締まり
 (2) 施策…あまり目新しいものはない(寛政の改革の強化(強制)版)
  A.生活統制…庶民の不満増大
   (a) 倹約令…高価な菓子・料理・人形・衣服の禁止、魚や野菜の初物の高価な売買の禁止
   (b) 風俗取締…江戸の歌舞伎劇場三座の場末移転、役者の歩行時の編笠着用(身分低いとして)
   (c) 出版統制
    ・人情本の作者為永春水を手鎖50日の刑に処す
    ・合巻の作者柳亭種彦も同様
     ※寛政の改革における出版統制…山東京伝(洒落本)、恋川春町(黄表紙)、蔦屋重三郎(出版元)
  B.経済統制…経済界の混乱
   (a) 棄捐令…寛政の改革の棄捐令よりも強力  ※寛政の改革でも実施
    ・幕府貸付金の返済は半額免除
    ・札差の債務を無利息年賦返済
   (b) 物価引下令
   (c) (すべての)株仲間の解散(1841)…商業の直接統制
    ・解散の根拠
      物価騰貴の原因は十組問屋などの株仲間の上方市場からの商品流通の独占にあると判断
      幕府は株仲間の解散すれば自由取引となり、物価の引き下げに効果があると期待
    ・結果…大失敗  → 株仲間の再興(1851)
      実際の物価騰貴の原因は、生産地から上方市場への商品流通量の減少にある
      かえって江戸への商品流入を減少させ、物価高騰を招く逆効果となる
   (d) 人返しの法(1843.3)…農村復興が目的   ※旧里帰農令(寛政の改革)
    ・百姓の離村、出稼ぎの禁止
    ・江戸に永年住んでいる者でも、営業し、妻子をもつもの以外は強制的に帰村
   (e) 御用金の賦課
   (f) 貨幣改鋳(改悪)
   (g) 開拓事業…印旛沼干拓事業の実施 → 失敗(忠邦の失脚による)
  C.政治統制…幕府権力の強化をはかる
   (a) 西洋砲術の採用…高島秋帆(1798〜1866)に西洋砲術を採用を許す
   (b) 三方領知替え…川越藩を豊かな庄内藩へ、庄内藩が長岡藩へ、長岡藩が川越藩に配置替え
    ・理由…相模の沿岸防備を担う川越藩の財政援助のため
    ・結果…領民の反対で失敗(決定した転封が実施できないほどの幕府権力衰退を露呈)
   (c) 上地令(1843.6)…失脚の直接原因
    ・江戸・大坂周辺を幕府の直轄領とし、財政安定や対外防備強化をはかる
      江戸は10里(約40km)四方、大坂は5里四方か
    ・老中土井利位をはじめ、諸大名・旗本、ひいては領民まで猛反対
      諸大名・旗本の反対理由…豊かな領地を奪われ、悪い代替地を与えられるから
      領民の反対理由…年貢前納や、大名・旗本に金融などをしていたため
       将軍の命で撤回(閏9.7) → 水野忠邦、失脚(閏9.13)
 (3) 結果…僅か2年で失敗、幕府権力の衰退を露呈 ←急激な改革に対するあらゆる階層の不満爆発
 株仲間 【重要】
   A.江戸初期(17世紀前半)…幕府は同業者団体の結成を原則禁止(戦国期の楽座政策を継承)
     ※ただし、金座・銀座・質屋の座は例外(政策上必要)
   B.仲間の結成(17世紀後半)…元禄時代(綱吉の治世)
    (a) 「仲間」…問屋商人による同業者団体、仲間掟を制定、営業権の独占が目的
     ・幕府は黙認、商品流通統制に利用   ←「内分の仲間」
    (b) 「仲間」の例
     ・十組問屋(江戸)……江戸で荷物の買入を組織化するために結成(1694)
     ・二十四組問屋(大坂)…十組問屋結成に応じて大坂で結成、十組問屋と提携して流通独占
   C.株仲間の公認(18世紀前半)…享保時代(吉宗の治世)
    (a) 「株仲間」…幕府による営業の独占権を認められた「仲間」(問屋商人の同業者団体)
       ※株…幕府によって認められた営業の独占権
    (b) 幕府の公認理由
     ・商業・手工業者の統制
     ・物価統制…物価調節は吉宗の重要施策
     ・運上金、冥加金(営業税)の賦課
   D.株仲間の奨励(18世紀後半)…田沼時代(田沼意次)
    (a) 目的…冥加・運上の増徴(商業資本を利用して幕府の収入増をはかるのが田沼の政策)
   E.株仲間の解散(1841)…天保の改革(水野忠邦)
    (a) 解散の根拠…商業の株仲間を通しての間接統制から、幕府の直接統制への転換
     ・物価騰貴の原因は十組問屋などの株仲間の上方市場からの商品流通の独占にあると判断
     ・幕府は株仲間の解散すれば自由取引となり、物価の引き下げに効果があると期待
    (b) 結果
     ・実際の物価騰貴の原因は生産地から上方市場への商品流通量の減少にある
       (在郷商人の活動と地方での消費の拡大のため)
     ・かえって江戸への商品流入を減少させ、物価高騰を招く逆効果となる
   F.株仲間の再興(1851)…嘉永年間(幕末)  …→効果は薄い
     ・実際の物価騰貴の原因は、生産地から上方市場への商品流通量の減少にある
     ・かえって江戸への商品流入を減少させ、物価高騰を招く逆効果となる
   G.株仲間の解散(1872、明治維新)…近代産業の発展の妨げになるため


3.天保の藩政改革
 (1) 天保の藩政改革の方向性(財政改革、体制改革)  …→(西南)雄藩の出現
  A.藩財政の建て直し
   (a) 国産奨励と専売制
   (b) 御用金の賦課
   (c) 家臣の減封
  B.門閥性の打破…下級武士の登用
  C.農民・町人の反抗抑圧(支配体制の強化)
 (2) 各藩の藩政改革
  A.薩摩藩(鹿児島藩)…調所広郷の登用
   (a) 藩の状況
    ・全人口の40%が武士、その多くが農村に土着して農村を支配、百姓一揆はほとんどない
    ・参勤費用、手伝いなどで深刻な財政難
   (b) 藩主後見役島津重豪(1745〜1833)、調所広郷(1776〜1848)を財政担当の家老に登用(1827)
   (c) 政策
    ・財政再建  → 広郷の死(1848)までに100万両の予備金を蓄積
      広郷、500万両の藩債を無利息250年賦で返済を債権者に認めさせる(事実上の帳消し)
      砂糖の専売制の強化…奄美三島(大島、徳之島、喜界島)の黒砂糖の惣買入れ(価格吊上げ)
      琉球密貿易の強化…長崎に向かう船から俵物を買い入れ、琉球を通して清国と密貿易
    ・軍事の強化
      洋式砲術を伝習、鉄砲・火薬の製造開始
      軍制改革、洋式工場(集成館)の建設(1852)…藩主島津斉彬による(安政期)
   (d) 結果
    ・財政再建に成功
    ・保守・革新両派の対立が絶えない、藩主島津斉彬の頃(安政期)になって順調化
  B.長州藩(萩藩)…村田清風の登用
   (a) 藩の状況
    ・早い段階から紙・蝋の専売実施
    ・天保年間のはじめに3度の大百姓一揆の発生
    ・百数十万両の藩債累積
   (b) 藩主毛利敬親(1819〜71)、村田清風(1783〜1855)を登用(1838)  ←1831(天保2)の大一揆後
   (c) 政策
    ・財政再建  → 財政再建に成功
      銀85,000貫(約140万両)の藩債を37年賦返済とする(事実上の帳消し)
      越荷方の設置…寄港する諸国廻船に積荷(越荷)の保管や金融を行い、利益を上げる
      紙・蝋の専売制を改革
      専売政策の緩和(藍の専売)、租税軽減…百姓の不満を緩和
    ・軍事の強化
      洋学の奨励、洋式兵術の採用
   (d) 結果…財政再建に成功、革新的下級武士の進出
  C.佐賀藩(肥前藩)
   (a) 藩主鍋島直正(閑叟、1814〜71)、改革開始(1831〜)
   (b) 政策
    ・財政再建  → 財政再建に成功
      均田制の実施(1852)…寄生地主の小作地を没収して、小作人に分け本百姓を創出
      陶器・石灰の専売制の実施(国産方の設置)
    ・軍事の強化…洋学の導入、西洋砲術の採用、反射炉の築造(1850)  → 大砲の鋳造
  D.土佐藩(高知藩)
   (a) 藩主山内豊煕(1815〜48)、「おこぜ組(改革派の家臣)」を登用(1843)
   (b) 政策…緊縮財政政策  → 門閥派の抵抗で挫折
  E.水戸藩
   (a) 水戸藩主徳川斉昭(1800〜60)、藤田東湖(1806〜55)・会沢安(1782〜1863)を登用(1829〜44)
   (b) 政策
    ・均田制の実施、直轄地の小作料の納入猶予、町人地主所有地の一部を藩に返還させる
    ・陶磁器の専売制の実施
    ・反射炉の築造(1856)
    ・藩学弘道館の設置(1841仮開館)
   (c) 結果…藩内保守派が反対、幕府の力を借りて斉昭を隠居させる  → 失敗
 (3) 結果
  A.西南雄藩の出現の準備…薩長土肥など(財政状況の改善、洋式軍備の導入など)
  B.安政の改革への橋渡し
  C.地域における格差の拡大
   (a) 常陸・下野の人口:約30%の減少(1721→1846) → 農民が耕作放棄、田畑は荒廃、都市へ流入
   (b) 周防・薩摩の人口:約60%増加 ← 生産力の増強
 藩政改革の流れ
  A.江戸中期以降、諸藩で藩政改革…財政再建、新田開発
  B.寛政の藩政改革(18世紀末)
   (a) 東北諸藩が中心…米沢藩、秋田藩など
   (b) 藩主自身による改革の指揮…細川重賢(熊本藩)、上杉治憲(米沢藩)、佐竹義和(秋田藩)
   (c) 内容
    ・国産奨励(殖産興業)と専売制の採用による財政再建
    ・藩学の設置
  C.天保の藩政改革(19世紀前半)  …→ 成功=西南雄藩の出現(明治維新の原動力)
   (a) 西南雄藩が中心…薩摩藩、長州藩、佐賀藩
   (b) 下級武士の登用による改革…調所広郷(薩摩)、村田清風(長州)
   (c) 内容
    ・専売制の強化
    ・軍制改革…洋風砲術・兵術の採用
  D.安政の藩政改革(開国(1854)以後)
   (a) 諸大藩が中心…越前藩、土佐藩など
   (b) 下級武士が中心
   (c) 内容…藩営貿易、軍制改革など


4.安政の改革…開国を受けての改革
 (1) 安政の藩政改革
  A.薩摩藩
   (a) 藩主島津斉彬(1809〜58)、忠義(1840〜97)による藩政改革
   (b) 政策
    ・島津斉彬、鹿児島磯ノ浜に反射炉(1856)、造船所、ガラス製造所
    ・島津忠義、紡績工場(イギリスの技術を導入)を築造
    ・島津忠義、長崎の外国人商人グラヴァーから洋式武器を購入して軍事力を強化
  B.越前藩
   (a) 藩主松平慶永(1828〜90)、橋本左内(1834〜59)、由利公正(1829〜1909)を登用
   (b) 藩営貿易を計画
  C.土佐藩
   (a) 藩主山内豊信(1827〜72)、吉田東洋を登用
   (b) 軍事力強化政策の実施…大砲鋳造、砲台築造、洋式造船技術の育成など
  D.宇和島藩
   (a) 藩主伊達宗城、殖産興業、文武教育の振興、洋式兵学の導入、蒸気軍艦の建造など(天保期〜安政期)
 (2) 安政の幕政改革(開国後の幕府の対策)…幕府による殖産興業政策
  A.人材登用
   (a) 勝海舟(義邦、1823〜90)
    ・幕府海軍を創始、咸臨丸艦長として遣米使節に随行、日本人初の太平洋横断に成功
    ・戊辰戦争の際、西郷隆盛と会見して江戸城無血開城に努力
   (b) 岩瀬忠震(1818〜61)…日米通商修好条約を調印
   (c) 川路聖謨(1801〜68)…勘定奉行・外国奉行、日露和親条約締結で活躍
   (d) 井上清直(1809〜67)…下田奉行、日米通商修好条約を調印、川治聖謨の弟
   (e) 江川英龍(坦庵・太郎左衛門、1801〜55)…伊豆韮山に反射炉、品川沖に台場を築く
   (f) 高島秋帆(1798〜1866)…洋式砲術、砲台築造
  B.蕃書調所の設置(1856)…幕府直轄の洋学の研究・教育機関
   (a) 主に幕臣の子弟を対象に西欧の語学・理化学を教授…箕作阮甫らが教授
   (b) 蛮書和解御用(1811設置、洋学所に改称(1855)から発展的に解消
  C.軍事力の強化
   (a) 品川沖に台場を設置(1854)…江川英龍の献策による
    ・江戸湾防衛のため砲台として1〜6番(計画は11基)の人工島を築造 → 実用には至らず
   (b) 講武所の設置(1856)…江戸築地に設置、直参とその子弟に剣槍や砲術、洋式調練を実施
   (c) 海軍伝習所の設置(1855)
    ・長崎に設置、オランダ寄贈の軍艦によりオランダ士官が訓練にあたる
    ・勝海舟、榎本武揚らの幕臣や、諸藩士も参加
   (d) 横須賀に製鉄所を建設(1865)…フランスの技術を導入
    ・明治政府接収後、横須賀造船所と改称(1871) → 横須賀海軍工廠(1903)
   (e) 長崎に製鉄所を建設(1857起工、1861完成)…オランダから機械一式購入
    ・明治政府接収後、長崎造船所と改称(1871) → 三菱に払下げ、三菱長崎造船所となる(1887)
   (f) 水戸藩、幕命を受け、江戸石川島に造船所(石川島造船所)を建設(1854)
    ・明治政府接収後、官営工場化 → (現)石川島播磨重工


5.近代工業の芽生え
 (1) 江戸時代の(手)工業発達の流れ…農村家内工業 → 問屋制家内工業 → 工場制手工業
  A.農村家内工業の成立
   (a) 「農村家内工業」…農村の零細な百姓による農業と結びついた自給自足の手工業の形態
    ・農家の副業として成立
  B.問屋制家内工業の一般化(18世紀)
   (a) 「問屋制家内工業」…問屋が農家に原料や生産道具を貸与、製品を買取る手工業の形態
    ・農村部への商業・高利貸資本の流入により成立  → 問屋の支配(18〜19世紀)
  C.工場制手工業(マニファクチュア)の出現(一部地域では17世紀に出現)
   (a) 「工場制手工業」…賃労働者(奉公人)を1カ所に集め分業で協同生産を行う手工業形態
    ・問屋商人や一部の地主が工場で設置
    ・資本主義生産の初期段階
    ・伊丹、池田、灘の醸造業では17世紀に出現
    ・19世紀には大坂の周辺や尾張の綿織物業、桐生・足利の絹織物業などに普及
  D.工場制手工業(マニファクチュア)の発展  …→ 近代工業へ発展(明治以降)
   (a) 工場制手工業(マニファクチュア)の普及と限界
   (b) 洋式機械工場の設立
 (2) 工場制手工業(マニファクチュア)の展開
  A.工場制手工業(マニファクチュア)化された業種と産地
   (a) 絹織物…西陣(京都)、桐生(上野)、伊勢崎(上野)、足利(下野)など
   (b) 綿織物…大阪周辺、尾張地方など
   (c) 製蝋業…四国や九州地方など
   (d) 醸造業…酒:伊丹(摂津)、灘(摂津)など、醤油:野田(上総)、銚子(上総)など
   (e) 鋳物業…川口(武蔵)など
  B.工場制手工業(マニファクチュア)の限界…封建社会の下では近代工業へは脱皮できない
   (a) 労働力の欠乏…百姓の農業への緊縛
   (b) 市場の制約…原料獲得、製品販売上の制約、藩の専売政策強化
   (c) 資本力の不足…地主・問屋商人では大規模工場は造り得ない →藩営洋式機械工業の設立
 (3) 洋式機械工業の設立…工場制手工業(マニファクチュア)の限界打開のための一方策
  A.設立の背景
   (a) 開国後の生糸輸出量の増大(開国後は生糸が最大の輸出品)
   (b) 幕府、諸藩の西洋技術導入…幕府−フランスから導入、薩摩・長州藩−イギリスから導入
  B.設立された工場  → 多くが明治官営工場の母胎となる  (天保、安政の藩政改革と関連)
   (a) 佐賀藩(鍋島直正)…反射炉を築造(1850)
   (b) 薩摩藩(島津斉彬)…反射炉を築造(1856)、紡績工場を設置(1867)
   (c) 水戸藩(徳川斉昭)…石川島造船所を築造(1854)
   (d) 幕府…横須賀造船所を築造(1865)
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 ■13.化政文化


1.化政文化
 (1) 化政文化
  A.時期…18世紀末〜19世紀初め(文化(1804〜18)・文政(1818〜30)年間が中心)≒大御所時代
  B.特色
   (a) 江戸の庶民が文化の中心…文化の裾野は国民的広がりをもつ文化
   (b) 享楽的、退廃的な傾向…いじけた文化
   (c) 学問や思想面における科学的・批判的精神の現れ
  C.元禄文化と化政文化との比較
  元  禄  文  化   化  政  文  化
時  期  17世紀後半〜18世紀初め  18世紀末〜19世紀初め
中心地域  上方(京都・大坂)中心  江戸中心
担い手  武士・豪商  中小商工業者(庶民)
特  色  人間性の追求  享楽的・退廃的傾向
 武士・豪商が担い手  庶民が担い手
 合理的精神の勃興  批判的精神の高揚
 江戸時代の文化を理解するために
  ◇基本的に4期に分けて学習(教科書によっては多少の違いはあるが)
  ◇幕府の政策と文化との関連…文化に必要なものは「暇」と「金」
 【江戸時代の文化のイメージ】
江戸文化のイメージ


2.町人文化…町人文化の中心は小説・歌舞伎・浮世絵
 (1) 化政文学
  A.小説…貸本屋を通して広く人々に読まれる(江戸の貸本屋数656軒(1808)、大坂300軒(1813))
   (a) 洒落本…遊里を題材にした短編小説、滑稽と通を描く、寛政の改革で弾圧
    ・山東京伝(1761〜1816)…主な作品:「仕懸文庫」(1791)
      名前は江戸京橋に住む伝蔵の意、初め黄表紙・洒落本を書き、弾圧後、読本に転向
   (b) 黄表紙…風刺滑稽の絵入り小説、青本から大人向きに発達
    ・恋川春町(1744〜89)…主な作品:「金々先生栄華夢
      江戸小石川春日町に住んだ駿河小島藩士、黄表紙「鸚鵡返文武二道」で寛政の改革を風刺したため
      弾圧される
    ・山東京伝(1761〜1816)…主な作品:「江戸生艶気樺焼」
   (c) 読本…歴史的伝奇小説、大人向きのため長編で文章主体、勧善懲悪のストーリー
    ・上田秋成(1734〜1809)…主な作品:「雨月物語」(1776)
      大坂の人、国学者、読本作家、俳諧・和歌にも通じる
    ・滝沢(曲亭)馬琴(1767〜1848)
      主な作品:「南総里見八犬伝」(98巻106冊、1814〜41)、「椿説弓張月」(1806〜10)
      江戸の人、読本作家、晩年失明後は息子の嫁に口述筆記させて八犬伝を完成
   (d) 滑稽本…庶民生活の滑稽を会話中心に描写、完成の出版統制後、洒落本から独立
    ・十返舎一九(1765〜1831)…主な作品:「東海道中膝栗毛」(16巻、1802〜22)
      滑稽本作者、黄表紙・読本も書く、各種の膝栗毛を著作
    ・式亭三馬(1776〜1822)…主な作品:「浮世風呂」(1809〜12)、「浮世床」(1823完成)
      江戸浅草の売薬商、黄表紙・洒落本・合巻・読本を書き、滑稽本「浮世風呂」で成功
   (e) 人情本…文政期以降洒落本に代わり江戸町人の愛欲生活を描いた読物、絵入読本ともいう
    ・為永春水(1790〜1843)…主な作品:「春色梅児誉美(春色梅暦)」(1832)
      江戸の人、人情本作者、貸本屋から講談師となる、天保の改革で「春色梅児誉美」が絶版処分となる
   (f) 合巻…黄表紙を数冊分綴じ合わせたもの、黄表紙をより大人向きにするため合巻とした
    ・柳亭種彦(1783〜1842)…主な作品:「偐紫田舎源氏」(1829〜42)
      合巻作者、江戸の旗本、天保の改革で「偐紫田舎源氏」が大奥の生活を描写しているとして絶版処分
      となり、それがもとで病没
    (g) 草双紙…本来、子どもが対象の絵本、表紙の色で区別
    ・赤本…「桃太郎」など子供向きの絵本
    ・青本・黒本…内容は軍記物
   (h) 出版人…出版と販売、貸本業も営む
    ・蔦谷重三郎(1750〜97)…太田南畝・恋川春町・山東京伝を世に出す、寛政の改革で京伝とともに弾圧
 近世小説の系譜
近世小説の系譜
  B.俳諧
   (a) 与謝蕪村(1716〜83)…天明期
    ・俳人・画家(文人画)、摂津の人、絵画的(写実的)な描写、豊かな叙情性を特徴とする俳風
      和詩(俳体詩)にも優れた作品を遺す
    ・主な作品:「蕪村七部集」
   (b) 小林一茶(1763〜1827)…化政期
    ・信濃柏原の人、家庭的には不幸、皮肉・激情・童心の混じった個性の強い作風
    ・主な作品:「おらが春」(1819)…日記風に記した随筆・発句集
 俳諧の系譜
江戸時代の俳諧の系譜
  C.和歌…一般庶民層には浸透せず
   (a) 香川景樹(1768〜1843)…古今調
    ・歌人、鳥取の人、号は桂園、古今調の平明な歌風、桂園派を創始
   (b) 良寛(1757〜1831)…万葉調
    ・越後出雲崎出身の禅僧、歌人・書家、岡山玉島の円通寺で修行、全国行脚の後故郷に閑居
    ・万葉調の歌風で、童心にあふれる、独自の生活歌
  D.狂歌…庶民層に愛好
   (a) 狂歌…和歌から派生した戯れの文芸、内容よりも言葉のもじり、天明期が最盛期
   (b) 代表的歌人…狂歌師には武士や国学者など教養人が多い
    ・太田南畝(蜀山人、1749〜1823)…江戸の御家人、狂歌師、四方赤良などの戯号あり
    ・石川雅望(宿屋飯盛、1753〜1830)…国文学者、狂歌師、江戸で宿屋を経営
  E.川柳…庶民層に愛好
   (a) 川柳…俳諧の形式をまねる、柄井川柳が評点をつけたことから名がおこる
   (b) 代表的歌人…柄井川柳(1718〜90)…川柳の祖、浅草の名主、主な作品:「誹風柳多留
  F.その他
   (a) 「菅江真澄遊覧記」…菅江真澄(1754?〜1829)の紀行日記
    ・菅江真澄は三河の人で国学者・紀行家、1873年から東北〜北海道を遍歴、日本民俗学の先駆者
   (b) 「北越雪譜」(1835〜42刊)…鈴木牧之(1770〜1842)の随筆集、雪国の自然や農民の生活・風俗を描く
    ・鈴木牧之は越後塩沢の縮商人、山東京伝・曲亭馬琴らの江戸文化人と交遊
 (2) 演劇
  A.人形浄瑠璃
   (a) 元禄以後、18世紀中頃まで全盛期 → 以後、歌舞伎に圧倒されて衰退
    ・竹田出雲(1691〜1756)…浄瑠璃作者、竹本座の座元、大坂の人
      主な作品:「仮名手本忠臣蔵」(1748初演)、「菅原伝授手習鑑」(1746初演)、「義経千本桜」
    ・近松判二(1725〜83)…浄瑠璃作者、近松門左衛門の養子
      主な作品:「本朝廿四(二十四)孝」
   (b) 唄浄瑠璃(歌浄瑠璃)への変化…人形操りと分離、座敷で歌われる
    ・常盤津節…常盤津文字太夫が創始、18世紀中頃に流行
    ・新内節…18世紀中頃、鶴賀新内が創始、妖艶な歌詞と哀調
    ・清元節…19世紀初頭、清元延寿太夫が創始、曲節が大衆的で庶民に愛好
  B.歌舞伎…18世紀後半以降、大いに発展
   (a) 劇場の整備(寛政期)
   (b) 専門の歌舞伎作者の出現
    ・(四世)鶴屋南北(1755〜1829)…江戸の人、歌舞伎全盛期創出、描写は怪奇凄惨で怪談物が得意
      主な作品:「東海道四谷怪談」(1825初演)
    ・河竹黙阿弥(新七、1816〜93)…江戸の人、世話物・白浪物が得意、明治初期も活躍
      主な作品:「白浪五人男」、「三人吉三(廓初買)」…白浪物(盗賊が主人公)
   (c) 名優の登場…石川、尾上、中村、沢村、市村などの宗家設立
   (d) 内容的は退廃的世相を反映…怪奇、残虐、淫蕩な場面が人気
 江戸時代の芸能の系譜
江戸時代の芸能の系譜
 (3) 絵画
  A.浮世絵の発展…庶民の絵画として発達
   (a) 浮世絵の歴史的展開
    ・浮世絵の出現(元禄文化期)…美人・役者・相撲など遊郭や歌舞伎に対象を求める
      菱川師宣(1618?〜94)…浮世絵の大成者、肉筆浮世絵 → 版画(この段階では墨摺絵)
    ・錦絵(多色刷り浮世絵版画)の登場(1765)  → 一般庶民に爆発的に流行(安価に)
      鈴木春信が創始  → 「春信美人」の流行
      絵師、彫師、摺師の合作(教科書に登場するのは絵師の名のみ)による作品
      鈴木春信(1725〜70)…宝暦期
       錦絵を創始、情緒に富む美人画が特徴、春信美人(清楚な華奢な美人)が流行
       主な作品:「弾琴美人」、「夜雨神詣美人」、「風俗四季歌仙」(風景の中に華奢な美人を配置)
    ・錦絵の最盛期(寛政期)…大首絵の出現(美人画、役者絵など)
      喜多川歌麿(1753〜1806)
       大首絵の美人画という新しい様式を開拓(美人画の最高峰)
       主な作品:「婦女人相十品」(5枚組(「ピッポンを吹く女」が有名)、「高名美人六家撰」など
      東洲斎写楽(不詳)
       伝記不詳、1794〜95年の1年間のみ活動、約140点役者絵と少数の相撲絵を残す
       主な作品:「大谷鬼次の奴江戸兵衛」、「市川鰕蔵の竹村定之進」など
    ・風景版画の発展(天保期)…葛飾北斎、歌川(安藤)広重の登場
      葛飾北斎(1760〜1849)
       江戸の人、狩野派・洋画など各種の画法を学び独自の画風を展開、デザイン・挿絵も描く
       主な作品:「富嶽三十六景」(「凱風快晴」「神奈川沖浪裏」などが有名)
      歌川(安藤)広重(1797〜1858)
       江戸定火消同心安藤家の生まれ、歌川派に学ぶ、浪漫的な日本的風景画を大成
       主な作品:「東海道五十三次」(1832〜33、錦絵55枚)…人気では北斎を凌ぐ
   (b) 浮世絵の位置づけ
    ・錦絵(多色刷り浮世絵版画)の登場で安価となり、爆発的に庶民に流行(ポスター、プロマイドとして)
    ・海外に大量に輸出(軽量で嵩張らない)、色遣い、デザイン、構図などヨーロッパの印象派の画家
     (モネ、ゴッホら)に大きな影響
  B.写生画の出現…円山派、四条派(京都が中心)
   (a) 円山応挙(1733〜95)…円山派を創始
    ・狩野派を学び、西洋や明・清の写実法を導入して日本的な写生画の様式を完成
    ・主な作品:「保津川図屏風」、「雪松図屏風」、「孔雀図襖」
   (b) 松村月渓(呉春、1752〜1811)…円山派より分かれ、四条派を創始
    ・文人画・円山派の長所をとり四条派を開く、やがて円山派を圧倒、今日まで日本画の伝統を伝う
    ・主な作品:「柳鷺群禽図屏風」
  C.文人画(南画)の出現
   (a) 「文人画(南画)」
    ・文人・詩人が余技(趣味)として描いた絵、色や形より余韻や風格を尊ぶ、水墨淡彩
    ・明・清の南宗画の影響を受けて成立、18世紀後半から盛んとなり、化政期が最盛期
   (b) 主な文人画家
    ・池大雅(1723〜76)…主な作品:「十便十宜図」(蕪村との合作)
      京都の人、明・清の南画を学び独自の南画を完成
    ・与謝蕪村(1716〜83)…主な作品:「十便十宜図」(大雅との合作)
    ・谷文晁(1763〜1840)…江戸の人、狩野派・円山派・南画を学び独自の一派をなす
    ・田能村竹田(1777〜1835)…豊後竹田の人、江戸で文晁に学ぶ
    ・渡辺崋山(1793〜1841)…主な作品:「鷹見泉石像」(陰影を施す西洋的手法)、「一掃百態」
      蘭学者・画家、三河田原藩江戸家老、蛮社の獄で自害、文晁に絵を学び西洋画法も摂取
    ・浦上玉堂(1745〜1820)…備前生まれ、備前池田藩士、のちに諸国を周遊
  D.西洋画の出現
   (a) 戦国・桃山期に南蛮人によって日本に伝来  → 中絶
   (b) 蘭学の興隆に伴って江戸後期になり、平賀源内らが再興
    ・平賀源内(1729〜79)
      本草学者・科学者・戯作者、讃岐高松の人、長崎で本草学、オランダ語を学んだ後、江戸で寒暖計、
      エレキテル、石綿などを製作
    ・司馬江漢(1738〜1818)…主な作品:「不忍池図」
      銅版画を創出(1783)   ←桃山期に伝来していたが中絶
      洋画家・思想家、前野良沢に蘭学を学び地動説紹介、封建制を批判、源内から絵画を学ぶ
    ・亜欧堂田善(永田善吉、1748〜1823)…主な作品:「浅間山図屏風」
      福島賀須川の人、谷文晁に絵を学び藩主松平定信の命で銅版画を研究
 江戸時代の絵画の系譜
江戸時代の絵画の系譜


2.都市生活
 (1) 都市に住む人々…農村に住む人々と比べれば豊かである
  A.武士…多くは生活に困窮  → 生活の維持のため内職を行う
  B.町人
   (a) 大商人…贅沢な生活
   (b) 下層町民…生活にはあまり余裕がない  → 物価高騰などすれば打ちこわし発生
 (2) 衣食住
  A.衣…一般的に華美化・高級化、女性の髪型の多様化、流行が激しくなる
  B.食…贅沢な料理、初物の嗜好、料理屋(料理屋、居酒屋、蕎麦屋、寿司屋など)の増加など
  C.住…瓦葺、塗屋造(建物の壁を漆喰で塗り固める)の建物の増加…防火のため
 (3) 娯楽
  A.歌舞伎、人形浄瑠璃、講談(講釈)・落語・浪花節など寄席、相撲
  B.遊郭…吉原(江戸)、島原(京都)、曾根崎(大坂)などは幕府の公認、(非公認の遊郭=岡場所)
  C.銭湯、髪結床…庶民の交流の場
  D.寺社の縁日…祭礼、開帳(秘仏の公開)など
   (a) 芝居小屋、見せ物小屋など
   (b) 富くじ(突富)…幕府公認の寺社による宝くじ
  E.旅行
   (a) 湯治、物見遊山  ←江戸、京都、浪速などの「名所図絵」の出版
   (b) 寺社参詣…娯楽、現世利益を祈願
    ・伊勢神宮…伊勢参宮として最も盛ん(「一生に一度は御伊勢参り」が庶民のあこがれ)
    ・善光寺(長野)
    ・成田不動尊(成田)
    ・高野山
    ・金毘羅大権現(+由加大権現)
    ・厳島神社(宮島)
    ・各種の巡礼…聖地や霊場の巡礼
      西国三十三カ所観音巡礼、四国八十八カ所大師霊場巡礼、坂東三十三カ所観音巡礼、
      秩父三十四カ所観音巡礼など
 (4) 行事
  A.年中行事
   (a) 五節句(七草(1/7)、雛祭り(3/3)、端午の節句(5/5)、七夕(7/7)、重陽(9/9)の節句)
   (b) 正月、盂蘭盆、
  B.講…日待、月待、庚申講など
  C.寺社の祭礼…神田祭(江戸)、祇園祭(京都)、天満祭(大坂)をはじめ、地元の寺社の祭礼


4.信仰
 (1) 仏教の停滞と堕落
  A.仏教の形式化…宗教活動は葬式や法事に限定 → 庶民は慣習として受け入れ
  B.縁日や開帳によるお布施集め
   (a) 開帳…秘仏の公開   →出開帳も行う
  C.仏教の現世利益化(民衆は仏教を現世利益を実現する対象とみなす) →参詣・巡礼の流行
   (a) 参詣…(伊勢神宮)、善光寺、成田不動尊、高野山、金毘羅大権現など
   (b) 巡礼…西国三十三カ所観音巡礼、四国八十八カ所大師霊場巡礼、坂東三十三カ所観音巡礼、
        秩父三十四カ所観音巡礼など
 (2) 民間信仰の流行…信仰の現世利益化(庶民は商売繁盛、病気平癒などの現世利益を求める)
  A.特定の神仏と利益とを結びつける傾向の一般化
   (a) 福の神(商売繁盛)…恵比寿、大黒
   (b) 子育て…鬼子母神  → 子育地蔵、子安観音
   (c) 武芸…八幡神
   (d) 商売繁盛…稲荷(稲荷はもともとは農業神)
  B.迷信の流行
   (a) 口寄せ…霊魂の存在を信じ、巫女を媒介に霊魂の意志をしゃべらせる
   (b) 日待、月待、庚申講(→庚申塔の建立)など
    ・日待…神に酒肴を供えて一晩こもり、翌朝の日の出を待つ行事
    ・月待…月の出を排する行事
    ・庚申講…庚申の日の夜に体中から抜け出した虫が天帝に人の罪を告げ口し、命を縮めるのでその世は
         眠らずに過ごすという信仰の集まり
   (c) 普請、転居、結婚、出入などの日の吉凶を選ぶ
  C.特定の生き神さま、教祖に対する信仰の発生 ←共通の特徴:病気平癒などの現世利益を願う
   (a) 黒住教…1814年(文化年間)に岡山の黒住宗忠(1780〜1850)が創始
   (b) 天理教…1838年(天保年間)に天理(大和)の中山みき(1798〜1887)が創始
   (c) 金光教…1859年(安政年間)に岡山の川手文治郎(1814〜83)が創始
  D.山岳信仰の流行…富士山、木曽御嶽山など
   (a) 富士講…富士山を信仰する講、江戸庶民を中心に発展、代参や小富士を築いて参詣する
   ※C.D.の教えは教派神道13派(明治政府によって公認された神道)に発展
 お蔭参り・抜け参り
 (1) 伊勢神宮の御恩に感謝するための参宮という意
   親や主人の許しもなくこっそり抜け出す場合もあり、その場合は抜け参りという
 (2) 約60年に一度の割合で熱狂的なブームを呼ぶ
   A.代表的お陰年(江戸時代通じて5回)
     1650(慶安3)、1705(宝永2)、1771(明和8)、1830(天保1)、1867(慶応3)
   B.動員数
     1705(宝永2)の場合…50日間で362万人
     1830(天保1)の場合…1カ月間で228万人
 (3) 封建制度に縛られていた庶民の抵抗か、レクリエーションか

 

5.国学の発達
 (1) 国学の発達
  A.「国学」
   (a) 古典の研究を通して、儒仏の影響を受ける以前の純粋な日本固有の思想を研究
    ・仏教−僧侶…外来思想…排除
    ・儒教−儒官…外来思想…排除
    ・神道−神官  → 研究の担い手
   (b) 復古主義を主張…儒仏の影響を受けない上代人の精神に立ち戻ること
    ・本質的には反封建的・革命的思想ではない  ←古道は神のつくりたもうた道
  B.国学の発達…歌学の革新運動から開始、古典研究から国学へ
 国学発達の流れ
国学発達の流れ
 (2) 国学者
  A.国学先駆者…元禄期の古典研究(とくに歌学の革新運動)
   (a) 契沖(1624〜86)…「万葉代匠記」(万葉集の注釈書)
   (b) 北村季吟(1624〜1705)…「湖月抄(源氏物語湖月抄)」(源氏物語の注釈書)、幕府歌学方(5代綱吉)
   (c) 下河辺長流(1624〜86)
   (d) 戸田茂睡(1629〜1706)…歌学の革新を唱える
  B.荷田春満(1669〜1736)…国学の成立
   (a) 京都伏見の神官、「万葉集」を契沖に学ぶ、「記紀」を研究
   (b) 「創学校啓」(1728)を吉宗に献呈して国学を教える学校の創設を願う →「国学」の語の誕生
  C.賀茂真淵(1697〜1769)
   (a) 遠江浜松の神職の子、春満の弟子、のちに田安宗武に仕える、「万葉集」「古事記」を研究
   (b) 主な著作
    ・「国意考」(1806)…国学の復古思想(儒仏の影響を受けない上代人の精神に戻ること)を表明
    ・「万葉考」
  D.本居宣長(1730〜1801)…国学の大成者
   (a) 伊勢松坂の医者、真淵の弟子、自宅の鈴屋で国学を教える
   (b) 「古事記」(特に重視)、「日本書紀」、「万葉集」、「古今集」、「源氏物語」の研究…国学を大成
   (c) 主な著作…著作多し
    ・「古事記伝」(18巻、1764〜98)…国学・古典研究史上の金字塔
      「古事記」の注釈書、多くの写本を集めて校訂、記事の意味を考証
      総論にあたる巻1で「直毘霊」と題し、古道(神のつくりたまえる道)を明らかにした
    ・「秘本玉くしげ」(1787)…紀伊藩主徳川治貞に献呈した政治経済書
    ・「玉勝間」…随筆集、復古思想・文学・有職故実など広い題材を扱う
    ・「玉小櫛」…「源氏物語」の注釈書、道徳からの評価を否定、独自のもののあはれ論を展開
  E.平田篤胤(1776〜1843)…国学を思想運動化
   (a) 秋田の人、牢人、宣長没後の門人
   (b) 復古神道を創始…文学的要素を排除、国粋主義的・復古主義的な随神道を主張
    ・神官・僧侶・地方の豪農などの熱烈な支持(「草莽の国学」)
    ・篤胤の門弟たちにより、尊王攘夷思想へと展開し実践的運動化
  F.伴信友(1773〜1846)…若狭小浜藩士、晩年国学に専念、古文献の考証に優れる
  G.塙保己一(1746〜1821)
   (a) 武蔵の人、5歳で失明、真淵の弟子、和漢の学に通じる
   (b) 和学講談所の設立(1793)
    ・幕府の許可で江戸麹町に設置
    ・林家の支配下で国史講習と史料編纂を行う、「群書類従」も編纂
   (c) 「群書類従」の編纂(1799〜1822)…塙保己一の編纂による国書の分類叢書、3000余を収録
    ・正編(530巻666冊で1270種、1819完成)、続編(1150巻1185冊で2103種、1822完成)の国書集録
    ・古代〜江戸初期までの国書を、神祇・帝王・補任…など25項に分類
 お蔭参り・抜け参り
 (1) 神道は特定の教義をもたない…祭祀を執り行うこと自体が目的  ←神道は本来アニミズム
 (2) 他の宗教の影響を受け、平安時代以降、教義を創出(内容的には他宗教の教義を流用)

  A.平安初期に成立
   (a) 山王神道…天台宗系=仏主神従(本地垂迹説)
   (b) 両部神道…真言系=仏主神従(本地垂迹説)
  B.鎌倉時代末〜南北朝時代
   (a) 伊勢神道<度会家行>…仏教(密教)のほか、儒・道・陰陽五行説を融合=神主仏従↓
  C.室町時代
   (a) 唯一神道<吉田兼倶>…神道を中心に、儒・仏を融合、江戸時代以前の神道界を風靡
  D.江戸時代
   (a) 吉川神道<吉川惟足>…唯一神道の影響、唯一神道から仏教色を除き、神儒一致を説く
   (b) 垂加神道<山崎闇斎>…吉川神道の影響、朱子学を基礎におく
   (c) 復古神道<平田篤胤>…幕末に成立、国学を基礎におく
   (d) 教派神道…幕末〜明治初に多数成立した新興神道 例:天理教、金光教、黒住教など
  D.明治時代
   (a) 国家神道の制度化 → 廃仏毀釈(神仏分離)…寺院と神社の分離(神仏習合の否定)
   (b) 国家による神道の保護と信仰の強制(天皇制との結びつき) →人々を戦争へ駆り立てる
  E.敗戦後…GHQによる国家と神道の分離 → 日本国憲法の「信教の自由」の規定


6.洋学
 (1) 元禄・正徳期…外国事情の紹介
  A.西川如見、「華夷通商考」を著して外国事情を紹介(1695、元禄期)
   (a) 西川如見(1648〜1724)…長崎通詞、天文暦算家、天文暦算から地理・経済にも明るい
    ・「華夷通商考」(1695)…如見が長崎で見聞した海外事情、通商関係を記述
  B.新井白石、イタリア人宣教師シドッチの尋問をもとに「西洋紀聞」・「采覧異言」を著作
   (a) シドッチ(1668〜1715)
    ・イエズス会宣教師、1708年に屋久島に潜入、捕らえられ江戸小石川のキリシタン屋敷に監禁
   (b) 新井白石の著作
    ・「西洋紀聞」(1715)…西洋の地理・風俗などを記録、閲覧は幕府内の関係者のみ
    ・「采覧異言」(1713)…シドッチの尋問や中国地理書を参照して世界の地理・風俗を記述
 (2) 享保期…幕府の保護・統制下における実学の研究
  A.吉宗、漢訳洋書の輸入を許可(1720)…実学奨励による殖産興業が目的(西洋思想の流入は阻止)
   (a) 青木昆陽、野呂元丈に蘭学を学ばせる
    ・青木昆陽(1698〜1769)…江戸の人、幕府書物方、吉宗の命で蘭語を学び、甘藷栽培を行う
    ・野呂元丈(1693〜1761)…伊勢の人、本草学者、吉宗の命でオランダの薬物を研究
(3) 田沼時代…蘭学の発展期
  A.江戸
   (a) 前野良沢・杉田玄白、「解体新書」(オランダの解剖書「ターヘル=アナトミア」)を翻訳出版(1774)
    ・「解体新書」(1774)…初の翻訳解剖書、ドイツ人クルムスの「解剖図譜」の蘭訳「ターヘル=アナトミア」の邦訳
    ・前野良沢(1723〜1803)…豊前中津藩医、昆陽に蘭学を学び長崎に遊学
    ・杉田玄白(1733〜1817)…若狭小浜藩医、「解体新書」訳述の回想録「蘭学事始」を著作
   (b) 大槻玄沢、蘭学入門書「蘭学階梯」を刊行(1788)
    ・大槻玄沢(1757〜1827)…蘭医、玄白・良沢に学び長崎遊学、江戸に蘭学塾芝蘭堂を開設
    ・「蘭学階梯」(1783)…蘭学入門書、上巻は日蘭通商と蘭学勃興の歴史、下巻はオランダ文法の初歩
   (c) 宇田川玄随、オランダ内科書の翻訳「西説内科撰要」を刊行(1793)
    ・宇田川玄随(1755〜97)…津山藩医、桂川甫周に蘭医学を学ぶ
   (d) 稲村三伯、最初の蘭日辞書「ハルマ和解」の刊行(1796)
    ・稲村三伯(1758〜1811)…鳥取藩医、玄沢に蘭学を学び長崎遊学、のち京都で蘭学を教授
      「ハルマ和解」…オランダ人ハルマの蘭仏辞書を翻訳、長崎のオランダ通詞が翻訳した「長崎ハルマ」
              に対して「江戸ハルマ」ともいう
   (e) 伊能忠敬、「大日本沿海輿地全図」を作成(1821完成)
    ・伊能忠敬(1745〜1818)
      下総佐倉の酒造家伊能家の養子、50歳の時に江戸に出、高橋至時に測地・暦法を学ぶ
      幕命で1800〜16年に全国の沿岸を測量 → 「大日本沿海輿地図」の作成(1821完成)
      「大日本沿海輿地全図」…大中小3種・計225図、驚異的に正確、幕府秘蔵、小図のみ1865年に刊行
   (f) 平賀源内、寒暖計やエレキテル(摩擦発電器)、石綿を製作(1770頃)
    ・平賀源内(1729〜79)
      本草学者・科学者・戯作者(福内鬼外)、西洋画も描く、讃岐高松の人
      長崎遊学の後、寒暖計やエレキテルなどを製作、社会に容れられず戯作に没頭、最後は獄死
  B.長崎
   (a) 長崎通詞本木良永(1735〜94)、コペルニクスの地動説(「天地二球用法記」)を紹介(1774)
   (b) 長崎通詞志筑忠雄、「暦象新書」を著し、ニュートンの学説を紹介(1802)
    ・志筑忠雄(1760〜1806)…長崎通詞、蘭学者、本木良永に学ぶ、語学・天文研究を行う
      「歴象新書」(1802)…ニュートンの弟子ジョン=ケイルの著の蘭訳を邦訳、ニュートンの学説を紹介
  C.大坂
   (a) 麻田剛立(1734〜99)、間重富(1756〜1816)・高橋至時(1764〜1804)らの門下生を育成
    ・間重富・高橋至時は幕府天文方として寛政暦制定に貢献
 (4) 文化文政期〜天保期…蘭学統制期、蘭学の内容が物理・化学の領域まで拡大
  A.窮理学(物理学)、舎密学(化学)の発達
   (a) 窮理学(物理学)…すでに田沼時代に平賀源内が活躍
    ・青地林宗(1775〜1823、化政期)、帆足万里(1778〜1852、天保期)の研究
   (b) 舎密学(化学)…宇田川榕庵の研究
    ・宇田川榕庵(1798〜1846)…蘭医、本草学者・植物学者・化学者、宇田川玄真の養子
      「舎密開宗」…英人の化学書を翻訳
      「菩多尼訶経」「植学啓原」…西洋植物学を紹介
  B.蘭学統制の強化…鎖国政策に対する批判意見の登場(鎖国は蘭学研究の妨げ)
   (a) 蛮書和解御用を幕府天文台に設置(1811)…幕府統制下における外交文書の翻訳・出版
    ・浅草天文台で洋書の翻訳開始(1803)→天文方高橋景保の建議で蛮書和解御用を設置(1811)
    ・蛮書和解御用の変遷…蕃所調所からは洋学の研究・教育機関
      蛮書和解御用(1811)→洋学所(1855)→蕃書調所(1856)→洋書調所(1862) →
        → 開成所(1863)→開成学校(1868)→大学校(1869.8)→大学南校(1869.12)→東京大学
   (b) シーボルト事件(1828)
    ・経過
      シーボルトの帰国時、国禁の日本地図を持ち出しが発覚(幕府天文方高橋景保が渡す) →
        → シーボルトは国外追放、高橋景保は投獄牢死
    ・シーボルト(1796〜1866)
      ドイツ人、オランダ商館医師、滞日5年、帰国後「日本」を刊行し日本をヨーロッパに紹介
      長崎に鳴滝塾を開き、医学・博物学の教授と診療を行う…門人:高野長英、小関三英など
   (c) 蛮社の獄(1839)…蘭学者の弾圧事件
    ・尚歯会…蘭学研究者グループ(渡辺崋山、高野長英、小関三英、江川坦庵など)
      渡辺崋山(1793〜1841)…三河田原藩の江戸家老、蘭学者、画家、尚歯会の中心人物
        「慎機論」(1838)…外国事情の紹介からモリソン号打払い(1837.7)の無謀を説く、未定稿
      高野長英(1804〜50)…陸奥水沢出身、牢人、町医者、シーボルトに医学蘭学を学ぶ
        「戊戌夢物語」(1838)…夢の中での知識人の討議の形でモリソン号打払いの無謀を説く
         ※ただし、文中にはモリソン号はイギリスの船とある(高野長英の勘違い)
    ・経過
      蘭学者の渡辺崋山、高野長英は著書でモリソン号に対する幕府の対応を批判 →
        → 幕府はかれらの蘭学研究者グループ(尚歯会)を弾圧
    ・処罰
      渡辺崋山は永蟄居(のち自害)、高野長英は永牢(火災に乗じて脱獄、追われて自殺)
      小関三英は自殺、江川坦庵は無罪
 (5) 幕末(開国以後)…洋学の成立
  A.洋学の成立…イギリス、フランス、ロシア、ドイツなどの学問も加わる  ←蘭学(オランダの学問)
   (a) あらゆる学問分野に実証主義的傾向を助長 → 明治以降の西洋学術導入の基礎となる
  B.幕府の動向
   (a) 蕃書調所の開設(1856)…幕府直轄の洋学の研究・教育機関
    ・主に幕臣の子弟を対象に西欧の語学・理化学を教授…箕作阮甫らが教授
    ・蛮書和解御用(1811設置、外交文書の翻訳・出版)から発展的に解消
    ・以後の変遷:洋書調所(1862)→開成所(1863)→開成学校(1868)→大学校(1869.8) →
       → 大学南校(1869.12) → 東京大学
   (b) 種痘所の開設(1860)…幕府直轄の西洋医学校
    ・1857年に民間(伊藤玄朴ら)で開設された種痘館が前身、1860年に幕府直轄となる
    ・以後の変遷:西洋医学所(1860)→医学所(1863)→医学校(1868)→大学校(1869.8) →
       → 大学東校(1869.12)→東京大学医学部
   (c) 海軍伝習所の開設(1855)…長崎に開設、幕府の洋式海軍技術教育機関
    ・オランダ海軍の士官から海軍の知識・技術を教授…勝海舟・榎本武揚(幕臣)らが習得
  C.民間の動向
   (a) 緒方洪庵、大坂に適々斎塾(適塾)を開設…幕末〜維新期にかけて優れた人材を多く輩出
    ・緒方洪庵(1810〜63)…蘭学者、備中足守の人、大坂・江戸・長崎で学び大坂で蘭医開業
    ・門下生…大村益次郎、橋本左内、福沢諭吉ら
蘭学の展開
元禄・正徳期 享  保  期 明和期(田沼時代) 文化・文政〜天保期 幕   末
外国事情の紹介 幕府の保護下の
実学研究
蘭学の発展期 研究分野の拡大
幕府による蘭学統制
洋学の成立
◇学者と著作
 ・西川如見
   「華夷通商考」
 ・新井白石
   「采覧異言」
   「西洋紀聞」
◇吉宗、漢訳洋
 書輸入許可
◇青木昆陽・
 野呂元丈の
 蘭語学習
《江戸》
 ・前野良沢・杉田玄白「解体新書」
 ・杉田玄白「蘭学事始」
 ・大槻玄沢「蘭学階梯」
 ・稲村三伯「ハルマ和解」
 ・宇田川玄随「西説内科撰要」
 ・伊能忠敬「大日本沿海輿地全図」
 ・平賀源内の諸発明
《長崎》
 ・志筑忠雄「暦象新書」
 ・本木良永、コペルニクス地動説紹介
《江戸》
 ・前野良沢・杉田玄白「解体新書」
 ・杉田玄白「蘭学事始」
 ・大槻玄沢「蘭学階梯」
 ・稲村三伯「ハルマ和解」
 ・宇田川玄随「西説内科撰要」
 ・伊能忠敬「大日本沿海輿地全図」
 ・平賀源内の諸発明
《長崎》
 ・志筑忠雄「暦象新書」
 ・本木良永、コペルニクス地動説紹介
◇民間の動向
・緒方洪庵
   [適塾]
◇幕府の動向
・海軍伝習所
・蕃書調所
・種痘所


7.教育
 (1) 幕府
  A.昌平坂学問所(1797)
   (a) 林家(林羅山)が上野忍岡にたてた私塾 → 綱吉、湯島昌平坂に移転(聖堂学問所)
    ・18世紀後半には古学派や折衷学派、考証学派の講義もあり
   (b) 寛政異学の禁(1790)に続く学制改革で正式に幕府の学校となる=昌平坂学問所の成立
    ・寛政異学の禁の後は儒学は朱子学のみ教授
  B.蕃書調所(1856)…幕府直轄の洋学の研究・教育機関
   (a) 主に幕臣の子弟を対象に西欧の語学・理化学を教授
   (b) 蛮書和解御用(1811設置、外交文書の翻訳・出版)から発展的に解消
   (c) 以後の変遷:洋書調所(1862)→開成所(1863)→開成学校(1868)→大学校(1869.8)→
       →大学南校(1869.12) → 東京大学
  C.種痘所(1860)…幕府直轄の西洋医学校
   (a) 1857年に民間で開設された種痘館が前身、1860年に幕府直轄となる
   (b) 以後の変遷:西洋医学所(1860)→医学所(1863)→医学校(1868)→大学校(1869.8)→
       →大学東校(1869.12)→東京大学医学部
 (2) 諸藩
 A.藩学(藩校)…藩士の教育機関(学問と武芸を教授)
   (a) 教授内容は儒学中心  →江戸後期には洋学や国学も教授
   (b) 総数約260のうち多くは江戸後期の成立(享保以前はわずか10校)
  (c) 主な藩学
   ・花畠教場(岡山)…池田光政が設置(1641)
     岡山藩学校(学校、1666)…本校の濫觴
   ・興譲館(米沢)……上杉綱憲が設置(1697)、上杉治憲が復興(1776)
   ・明倫館(萩→山口)…毛利吉元が設置(1719)
   ・時習館(熊本)……細川重賢が設置(1755)
   ・造士館(鹿児島)…島津重豪が設立(1733)
   ・明倫堂(名古屋)…徳川宗睦が再興(1782)  ←創立(1749)
   ・明徳館(秋田)……佐竹義和が設置(1789)
   ・日新館(会津)……松平容頌が設置(1799)  ←… 稽古堂(保科正之、1664)
   ・致道館(鶴岡)……酒井忠徳が設置(1804)
   ・弘道館(水戸)……徳川斉昭が設置(1841仮開館、1857本開館)
  B.郷学(郷校)…藩士+庶民の教育機関
  (a) 主な郷学…設置数は約400
    ・閑谷学校(1668)…岡山藩主池田光政が設置
    ・含翠堂(1717)…摂津平野郷の豪農・豪商が出資して設立
 (3) 民間
  A.私塾…一流一派の学風をなした学主を中心に集まった学徒が展開する共同学習の場
   (a) 漢学塾、洋学塾、国学塾など様々  → 塾ごとに独自の学風をなす
   (b) 主な私塾
    ・懐徳堂(1724)…大坂の町人が出資して経営、のち準官学
      合理的・実証的精神が強い → 門下生:富永仲基、山片蟠桃ら
    ・咸宜園(1817)…広瀬淡窓(1782〜1856)が郷里の豊後日田に開設、門弟約3000人
      幕末の思想家・志士を多く輩出、門下生:高野長英、大村益次郎ら
    ・松下村塾(1856)
      ペリー再来航の際に海外渡航に失敗して謹慎中の吉田松陰(1830〜59)が塾を引き継ぐ
      幕末の尊王攘夷派・開国倒幕派の志士を多く輩出、門下生:久坂玄瑞、高杉晋作ら
      ※吉田松陰…長州藩士、江戸で佐久間象山に師事、安政の大獄で刑死
    ・適々斎塾(適塾、1831)…緒方洪庵が大坂に開設、蘭学を教授
      幕末〜維新期の優れた人材を多く輩出、門下生:大村益次郎、橋本左内、福沢諭吉ら
  B.寺子屋…民間の庶民の初等教育機関
   (a) 江戸時代を通じて全国に約15,000以上(時代が下るにつれて急速に増加)
    ・寛永〜正徳年間(1624〜1715、92年間)…  77
    ・享保〜安永年間(1716〜80、65年間)… 140
    ・天明〜文政年間(1781〜1829、49年間)… 1387
    ・天保〜慶応年間(1830〜67、38年間)… 8675
   (b) 規模は20〜30人程度が多い(小規模)
   (c) 日常生活のための読み・書き・算盤が主体(読み・書きが主流)
  C.心学舎…心学を教える道場
   (a) 心学(石門心学)…石田梅岩(1685〜1744)が始めた平易な庶民の道徳教育
    ・儒仏神3教の思想を採り入れ、営利・商業の正当性と商人の存在意義を主張、倹約や正直など
     の町人道徳を平易な講話で説く  →町人に人気
    ・現世の不満や批判に対して消極的な態度(「人生の苦楽はその人の心のもちかた次第」) →
       → 民衆から見放される
    ・門人
      手島堵庵(1718〜86)…京都の商人、京都に心学舎明倫舎を設置
      中沢道二(1725〜1803)…堵庵の弟子、江戸で心学を普及、18世紀末の心学黄金期を現出
主な私塾
年 代 私塾名 所在地 学  主 教   授   内   容
1634 藤樹書院 近江 中江藤樹 儒学(陽明学者)
1662 古義堂 京都 伊藤仁斎 儒学(古学派)…堀川学派(古義学派)
1709頃 ■園塾 江戸 荻生徂徠 儒学(古学派)…■園学派(古文辞学派)
1724 懐徳堂 大坂 三宅石庵ら 儒学(朱子学)・陽明学など
1817 咸宜園 日田 広瀬淡窓 儒学(折衷学派)
1824 鳴滝塾 長崎 シーボルト 蘭医ほか
1830 洗心洞 大坂 大塩平八郎 陽明学
1831 適々斎塾 大坂 緒方洪庵 蘭学、適塾ともいう
1856 松下村塾 吉田松陰 儒学ほか
  芝蘭堂 江戸 大槻玄沢 蘭学
  鈴屋 松阪 本居宣長 国学


8.政治思想の発達
 (1) 経世思想(経世論)
  A.「経世思想(経世論)
   (a) 「経世」=「経世済民」の略…世を治め、人を救う政治経済論の意
   (b) 封建制を肯定した上で、その維持・補強をはかる思想…決して反封建思想ではない
  B.経世家(学者)と著作…17世紀末から動きが活発化=幕藩体制の動揺
   (a) 熊沢蕃山(了介、1619〜91)…陽明学者、京都の人、岡山藩主池田光政の家老として活躍
    ・著作:「大学或問」…重農主義的立場から参勤交代の緩和、武士の帰農を説く
   (b) 荻生徂徠(1666〜1747)…古学派、古文辞(■園)学派を創始、江戸に■園塾を開設
    ・著作:「政談」…吉宗の諮問に答え、参勤交代の弊害打破、武士土着論を説く
   (c) 太宰春台(1680〜1747)…古文辞(■園)学派、徂徠の弟子、徂徠の経済学の分野を発展
    ・著作:「経済録」…商業藩営論を展開(藩営専売の必要性を説く)
   (d) 海保青陵(1755〜1817)…儒学者、宮津・尾張藩儒官、のち京都で塾を開設
    ・著作:「稽古談」…藩政専売の積極化し、利潤の追求を主張
   (e) 本多利明(1744〜1821、寛政期)…越後の人、江戸で数学・天文学・航海術を学ぶ
    ・重商主義の立場から積極的な海外貿易論展開し、国富の増進を説く
    ・著作:「経世秘策」…利明の富国論(貿易、属島の開発など)を体系的に記す
        「西域物語」(1798)…西洋の国勢風俗を記し、航海・貿易の必要と人口論を説く
   (f) 佐藤信淵(1769〜1850、天保期)…出羽の人、江戸で蘭学・経済学を学ぶ、諸国廻遊
    ・重商主義の立場から世界貿易、国内体制の改革を説く
    ・著作:「農政本論」(1829)…農政の沿革・農事を詳述し、富国の5政策を説く
        「経済要録」…産業振興、官営商業、貿易展開を主張
        「宇内混同秘策」…日本の世界統一を主張
 (2) 反封建思想…近代的合理主義の萌芽
  A.安藤昌益(1710頃〜1762)…八戸で医者を開業(のち大館に移る)、医学・本草学・儒仏に詳しい
   (a) 思想…封建制度、階級制度を否定
    ・万人直耕の「自然世」を理想の社会(現実社会は「法世」)として、封建制度や身分制度を否定
    ・農本主義を主張し、商工業の存在を否定(分業の概念なし)=近代思想ではない
    ・幕府の政策に対して直接攻撃せず(「自然真営道」の不刊行など) →社会への影響は少ない
   (b) 著作
    ・「自然真営道」(100巻)…刊行されなかったため、一般への影響はなし
    ・「統道真伝」(6巻)…晩年に自説の大要をまとめたもの
  B.平賀源内(1729〜79)…本草学者・科学者・戯作者、讃岐高松の人
   (a) 洒落本・滑稽本の戯作の中で封建社会への批判…合理的精神を発揮
  C.司馬江漢(1738〜1818)…洋画家・思想家、前野良沢に蘭学を、平賀源内から絵画を学ぶ
   (a) 思想…人間の平等を唱える →普及しない
   (b) 著作:「春波楼筆記」
  D.富永仲基(1715〜46)…大坂の町人学者、懐徳堂に学ぶ
   (a) 思想…神道・仏教・儒教のあり方を批判、「出定後語」で歴史的立場から仏教を否定
  E.山片蟠桃(1748〜1821)…大坂の町人学者、豪商升屋の番頭、懐徳堂に学ぶ
   (a) 思想…儒教・仏教・神道を批判、唯物論的立場から無神論を展開
   (b) 著作:「夢の代」(1820)
 (3) 農業改良の立場
  A.大蔵永常(1768〜?)…農学者、豊後の人、宮崎安貞・佐藤信淵とともに三大農学者とされる
   (a) 商品作物の栽培による農村振興…先進地域の農村振興策
   (b) 著作
    ・「広益国産考」(1844)…約60種の作物の栽培法と商品作物加工による農家の利と国益を論ず
    ・「農具便利論」(1822)…数十種類の農具を図示し、用法を記す
    ※宮崎安貞…
  B.二宮尊徳(金次郎、1787〜1856)…没落した家を勤倹で再興、幕府諸藩に迎えられ農村復興に努力
   (a) 節約と貯蓄(報徳仕法)による荒村の復興(米作り中心)…後進地帯の農村復興
   (b) 報徳社の結成(1843)…小田原で結成、東海の自営農の間で発展、明治初年には全国1000社
    ・報徳社…尊徳の思想(尊徳教)を実践し、農村再建(報徳運動)を目指す結社
  C.大原幽学(1797〜1858)…尾張藩士を辞した後、下総に土着、農村復興を指導、幕府の咎めを受け自殺
   (a) 天命に従って分を守り(知足安分)、勤倹力行を主張
  D.佐藤信淵(1769〜1850)
 (4) 尊王論
  A.尊王論…天皇崇敬思想(江戸時代後期に急速に発達)、本来攘夷論とは無関係
   (a) 幕府批判思想(封建制度批判思想)ではない…尊王と敬幕は両立(尊王敬幕論)
   (b) 幕末(開国後)には政情不安を受けて攘夷論と結合、尊王攘夷論となり討幕運動化
  B.尊王論の系譜
   (a) 朱子学の大義名分論…尊王斥覇(王者>覇者)  →  尊王敬幕論
    ・大義名分論…主従関係の大義を明らかにし、臣下の分を尽くし、名分をたてることを主張
   (b) 水戸学…光圀が開始した「大日本史」編纂事業を中心におこった学風
    ・前期水戸学…朱子学の大義名分論に同じ
    ・後期水戸学…徳川斉昭を中心に尊王攘夷論を展開
    ・水戸学者(後期その他)…尊王攘夷論を展開
      会沢安(正志斎、1782〜1863)…徳川斉昭の側用人、藩政改革にあたる、著作「新論」
      藤田東湖(1806〜55)…安と共に藩政改革にあたる、安政大地震で圧死、著作「弘道館記述義」
    ・水戸学につながる人
      高山彦九郎(1747〜93)…勤王思想を全国遊説、久留米で悲憤自殺、寛政の3奇人の一人
      蒲生君平(1768〜1813)…天皇陵の荒廃を嘆き各地を踏査、「山陵志」を著す
      頼山陽(1780〜1832)…儒者・史論家、経史詩書を研究、「日本外史」「日本政記」を著す
   (c) 国学…平田派の復古神道(国粋主義、復古主義が強い)
    ・幕末には政情不安を反映して尊王攘夷論へ → 討幕運動化
  C.尊王論に関わる事件
   (a) 宝暦事件(1758)…最初の尊王論者処罰事件
    ・経過
      竹内式部が京都の公家に尊王論を説き、熱心な公家が倒幕を企て武芸の稽古を始めたことから、京
      都所司代に告発される  → 翌年、式部は重追放、公家らは謹慎
    ・竹内式部(1712〜67)…神道家、京都で垂加神道を学び尊王思想を説く、軍学にも詳しい
   (c) 明和事件(1767)
    ・経過
      山県大弐と藤井右門が江戸で尊王斥覇を説き幕府の失政を批判、甲府・江戸城攻撃の軍略を述べた
      ことから幕府に捕らえられる → 両人は死刑、式部も八丈島へ流刑(病死)
    ・山県大弐(1725〜67)…尊王兵学家、甲斐の人
      著作:「柳子新論」…尊王斥覇を説き、幕政を批判
 (5) 海防・開国論
  A.田沼時代
   (a) 工藤平助(1734〜1800)…「赤蝦夷風説考」で、積極的対露貿易の必要性を説く
  B.寛政期
   (a) 林子平(1738〜93)…「海国兵談」を著しロシアの南下を警戒、海防論を展開 →
       → 定信によって発禁処分、禁固刑
   (b) 本多利明(1744〜1821)…重商主義の立場から積極的海外貿易論を展開し国富の増進を説く
    ・著作:「経世秘策」、「西域物語」(1798)
  D.文政期
   (a) 佐藤信淵(1769〜1850)…重商主義の立場から世界貿易、国内体制の改革を説く
    ・著作:「農政本論」(1829)、「経済要録」、「宇内混同秘策」(日本の世界統一を主張)
  E.天保期
   (a) 蛮社の獄(1839)…渡辺崋山、高野長英らの開国論者の弾圧  ←モリソン号事件(1837)
    ・渡辺崋山(1793〜1841)…「慎機論」(未定稿)でモリソン号打払いの無謀を説く
    ・高野長英(1804〜50)…「戊戌夢物語」でモリソン号打払いの無謀を説く
  F.幕末
   (a) 横井小楠(1809〜69)…公武合体論・開国貿易論を唱える、松平慶永の顧問
   (b) 佐久間象山(1811〜64)…公武合体論・開国貿易論を唱える
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