■奈良時代
■奈良時代■ 1.遣唐使と平安京 2.奈良時代の政治史 3.班田収授制の崩壊
4.天平文化


 ■1.遣唐使と平安京


1.遣唐使
 (1) 唐(618〜907)の発展
  A.内政の充実…貞観の治(627〜649)、開元の治(713〜741)
  B.版図の拡大
   (a) 東突厥・西突厥の征服、インドシナ北部の征服、百済・高句麗の滅亡
   (b) 東アジア諸国(新羅、渤海、南詔など)の朝貢
 (2) 遣唐使…唐文化の摂取=律令国家の根幹
  A.派遣時期…18回計画→15回実施(3回中止)、おおよそ15〜20年ごと、別の数え方もある
   (a) 開始…630年(舒明天皇)、遣唐大使:犬上御田鍬   ※犬上御田鍬は第3回遣隋使
   (b) 廃止…894年(宇多天皇) ←菅原道真の廃止建議
  B.航路
   (a) 北路(第1〜5回)…安全なコース、新羅との関係悪化後は避ける
    ▼新羅との関係悪化の原因は?
   (b) 南島路(第6〜11・14回)・南路(第16〜17回)…危険なコース(東シナ海を横切る)
  C.規模…2隻・100〜200人(第1回〜第4回) → 4隻・500人程度(第8〜17回)
  D著名な使節・留学生・留学僧
   (a) 山上憶良(万葉歌人としても有名)
   (b) 阿倍仲麻呂、藤原清河 →唐朝に仕えて帰国できず
   (c) 吉備真備、玄ム  →奈良時代の政界で活躍
   (d) 最澄、空海、円仁、円珍 →平安時代初期に活躍
  E.渡来僧
   (a) 鑑真(753上陸)…律宗を伝える、5回の渡航失敗、盲目になる
    ※鑑真は大仏開眼供養に間に合っていない
   (b) 菩提僊那(735来朝)…インドのバラモン僧、大仏開眼供養(752)の際の開眼導師
  F.唐との外交は朝貢か、対等か
    ・日本…対等でありたい
    ・唐…朝貢以外にありえない
 (3) 新羅・渤海との国交
  A.新羅(676統一〜935)との国交(白村江の戦以降)
   (a) 使節の来朝…929年まで来朝<うち奈良時代は17回>
   (b) 遣使の派遣…882年まで派遣(正式なものは779年まで)<うち奈良時代は12回>
   (c) 関係の悪化とその理由
    ・新羅、日本との対等交渉を要求、一方、日本は新羅に従来からの従属的交渉を要求
    ・藤原仲麻呂の新羅征討計画 → 実現せず
  B.渤海(698〜926、ツングース族)との国交…渤海は日本に朝貢
   (a) 使節の来朝…727〜922年(34回)、毛皮・人参をもたらす
   (b) 遣使の派遣…728〜810年(13回)、絹・■(あしぎぬ)・綿・糸などを与える(渤海は日本に朝貢)
   (c) 国交を通ずる目的
    ・渤海…唐・新羅の対抗上 → 交易目的に変化(日本は制限を加える)
    ・日本…新羅との対抗上
日中外交略史
紀元前1世紀、定期的に献見する(漢書地理志)
奴国、後漢の光武帝から金印紫綬を授かる(57、後漢書東夷伝)、ほか
卑弥呼、魏に朝貢、親魏倭王となし金印紫綬を授かる(239、魏志倭人伝)
壱与(?)、晋に朝貢(266)
   <空白期間、約150年>
倭の五王、南朝に足繁く朝貢(倭王武、宋に朝貢(478、宋書倭国伝))
   <空白期間 約100年>
朝貢外交

(589〜618)
国交あり
(遣隋使の派遣)
聖徳太子、小野妹子を派遣(607) 対等外交

(618〜907)
国交あり
(遣唐使の派遣)
第1回遣唐使(犬上御田鍬)の派遣(630)
渡航した最後の遣唐使(838) →国風文化
菅原道真の建議によって遣唐使廃止(894)

両者思い
違い

(960〜1279)
国交なし
(貿易はあり)
日宋貿易は盛ん(清盛、音戸ノ瀬戸掘削、
大輪田泊の修築など)

(1260〜1368)
戦闘状態
(貿易はあり)
貿易は継続(建長寺船、天龍寺船を派遣) 戦闘状態

(1368〜1644)
国交あり
(遣明船の派遣)
義満、明に通商を求める(1401)
勘合符の使用(1404〜1547)
寧波の乱(1523)→大内氏による貿易の独占
大内氏滅亡により日明貿易終了(1551)
朝貢外交
以後は国交なし
明は海禁政策
南蛮貿易では東南アジア方面で出会貿易
秀吉は明征服をもくろむ
  (手始めに李氏朝鮮を侵略)
朱印船貿易では東南アジア方面で出会貿易
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2.平城京造営
 (1) 平城京
  A.遷都…710年(元明天皇) ←藤原京(694、持統天皇)
  B.遷都の理由
   (a) 地理的理由…広さ、交通の要地を求める
    ・藤原京(奈良盆地南東部、三山(香具山、畝傍山、耳成山)に挟まれた狭隘地、水はけが悪い)
    ・平城京(奈良盆地北端の広地、交通の要所)
   (b) 政治的理由…中央集権国家の偉容を内外に誇示(より広大な都城)
  C.平城京の構造
   (a) 南北4.7km×東西4.2km+北辺坊+外京(藤原京よりも大規模)
   (b) 条坊制(碁盤目状の道路)
    ・朱雀大路(南端に羅城門)
    ・東西の大路(九条)、南北の大路(左右に四坊) →条坊制
      ▼条里制と条坊制の区別は大丈夫?
   (c) 区分
    ・大内裏(宮城、平城宮)…内部に内裏(天皇の私生活の場)、朝堂院、諸官庁など
    ・右京+北辺坊
    ・左京     ※地図に書くと左と右が逆、「天子は南面する」という中国の思想
    ・外京(→現在の奈良市街にほぼ対応)
   (d) 建物の景観
    ・貴族・官吏の住宅、寺院(←多くは藤原京から移転)
    ・宮殿や寺院…青瓦・朱塗柱・白壁  →「青丹よし」の枕詞
   (e) 人口…10万人(かっては20万人)(推定、役所勤務は2万人程度か)、全国500〜600万人(推定)
   (f) 寺院の移転…藤原京・飛鳥地方からこぞって移転
    ・大安寺  ←大官大寺
    ・薬師寺  ←薬師寺(本薬師寺)
    ・元興寺(法興寺)  ←飛鳥寺(法興寺(元興寺))
    ・紀寺など
      ▼平安京への移転時と比較せよ
 (2) 生産
  A.国内資源の開発…周防の銅、陸奥の金など  →頻繁な改元(例:武蔵の銅献上(708)→和銅)
  B.農業生産の向上
   (a) 鉄製農具の生産・使用  ←調に鍬、鋤がみえる(官人に季禄として給付)
   (b) 潅漑、池・溝、築堤事業 ←国司・郡司の指導(雑徭)、僧侶の社会事業(例:行基)
   (c) 開墾          ←政府事業、権門勢家
   (d) 犂(からすき)の使用開始…牛による耕作 → 普及は鎌倉時代
  C.手工業の発達
   (a) 生産官司(朝廷の工房)…品部・雑戸(朝廷の諸官司に隷属する技能者)による生産
    ・平安時代には崩れる(10世紀初めには奴婢は廃止)
   (b) 国衙の工房…高級織物・漆器など国衙で製作、献上(宮廷の技術指導を巡回させる)
   (c) 寺社の工房…奴婢による生産(寺社の必需品生産)
    ・寺院は工房で鉄製農具など生産可能  …→寺院は墾田開発の担い手になりうる
 (3) 流通
  A.和同開珎の鋳造(708)
   (a) 銅銭と銀銭の別
   (b) 本格的な貨幣としての和同開珎 → 皇朝(本朝)十二銭
    ・富本銭(天武天皇の頃)は流通したかどうかは現段階では疑問
     ※和同開珎(708)〜乾元大宝(958)までの250年間に12種類の銅銭を鋳造=皇朝(本朝)十二銭
     ※次第に貨幣のサイズは小さくなり、質も粗悪化=古代律令制の崩壊の有様を象徴
  B.蓄銭叙位令(蓄銭叙位法、711)  →失敗、廃止(800)
   (a) 内容…従六位以下の者に対して、銭10貫文蓄銭するごとに1階昇進(後に基準が下がる)
   (b) 要因…貨幣の流通不活発(通常は物々交換、稲・布が貨幣代わり)
   (c) 結果…かえって銭が死蔵、流通を妨げる、あくまで銭の流通は都とその周辺に限定
  C.市
   (a) 都の市…東市・西市(八条三坊)=官設の市 ←東西市司の管轄下
    ・地方の産物や、官吏の禄として支給された布や糸などを交換
    ・稲・布による物々交換…貨幣は京・畿内以外ではあまり普及せず
   (b) 地方の市…海石榴市・軽市(大和)など
  D.交通制度
   (a) 官道の整備…都から放射状、一定規格の道路の整備、その他の道路も整備
   (b) 駅制…駅家(30里(約16km)ごとに設置)、駅馬(大路20匹〜小路5匹)
 (4) 支配領域の拡大
  A.蝦夷の平定…平定は9世紀になってから(坂上田村麻呂後も燻る)
   (a) 渟足柵(647)、磐舟柵(648)の設置(斉明朝)=日本海岸に蝦夷平定の前進基地を設置
   (b) 阿倍比羅夫の派遣(658〜660、斉明朝) →秋田・津軽(北海道の一部?)の平定
   (c) 出羽国の設置(712)  → 秋田城の設置(733)、雄勝城の設置(759)
   (d) 多賀城の設置(724)=蝦夷支配の拠点、鎮守府と国府を設置
    ・太平洋岸(北上川流域)平定の開始
  B.南九州・南西諸島の支配…8世紀初頭には平定
   (a) 種子島服属(682)、種子・屋久・奄美の来貢(682)
   (b) 大隅国の設置(713)…隼人への支配強化、遣唐使の南島路通行のため
   (c) 隼人の反乱(720〜721)
    ・大伴旅人が鎮圧 → 以後完全に服属(朝廷の警護や儀式に奉仕)
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 ■2.奈良時代の政治史


1.奈良時代の政治史…政変が相次ぐ時代(権力者の交代に注意)
 (0) 奈良時代の政治の概要
  ・政変が相次ぐ時代…政権担当者、時期などに注意
  ・藤原氏 vs 皇族+αの権力争い
 (1) 皇親政治(7世紀末〜8世紀初頭)
  ・持統天皇(686〜697)、文武天皇(697〜707)、元明天皇(707〜715)、元正天皇(715〜724)…文武を除き女帝
   ※持統は称制の時期を含む
  ・天武天皇の諸皇子がこれを助け、律令制度を完成の領域へ
 (2) 藤原不比等の政治(708〜720)…藤原不比等(鎌足の子)、右大臣に補任(708)
  A.大宝律令(701制定、令:701施行、律:702施行)
   (a) 刑部親王・藤原不比等らが編集  ←文武天皇
   (b) 律6巻・令11巻(現存せず)…「令集解」「続日本紀」から部分的に復元
  B.平城京へ遷都(710)  ←元明天皇
  C.蓄銭叙位令(蓄銭叙位法、711)  →失敗、廃止(800)
   (a) 内容…従六位以下の者に対して、銭10貫文蓄銭するごとに1階昇進(後に基準が下がる)
   (b) 要因…貨幣の流通不活発(通常は物々交換、稲・布が貨幣代わり)
   (c) 結果…かえって銭が死蔵、流通を妨げる、あくまで銭の流通は都とその周辺に限定
  D.養老律令(718制定、757施行)
   (a) 藤原不比等らが編集
   (b) 律10巻・令10巻 →律の一部、令の大半が残存=内容的に大宝律令と大きな変化なし(字句訂正程度)
  E.天皇家と外戚関係を設定…宮子(不比等の娘)を文武天皇の夫人とする → その子はのち聖武天皇となる
 (3) 長屋王の政治 (721頃〜729) ←藤原不比等(鎌足の子)の死(720)、不比等の子らは地位的に未熟
  A.長屋王(天武の孫)皇親政治(672〜729)の最後の人物(長屋王の変(729)で終焉)
  B.班田収授制の建て直し策
   (a) 百万町歩開墾計画(722) →失敗
    ・要因…口分田の人口増加による不足、浮浪・逃亡による荒廃
     ※70万町歩(奈良時代)→163万町歩(慶長期(秀吉の頃))→300万町歩(明治初期)
   (b) 三世一身の法(「養老七年四月十七日の格」、723、続日本紀) →墾田永年私財法に発展
    ・新しい灌漑施設をつくり開墾した者…三世まで保有(収公しない)
    ・古い灌漑施設を修理して荒廃地を復興した者…当代一身(一代)のみ保有(収公しない)
  C.長屋王の変(729) ←謀叛の企ての密告(藤原四兄弟の謀略)
 (4) 藤原四兄弟の政治 (729〜737) →天然痘の流行で四兄弟とも病死(737)
  A.藤原四兄弟(不比等の子)
   (a) 武智麻呂(南家の祖)
   (b) 房前(北家の祖) →平安時代に権勢を振るう(道長、頼通など)
   (c) 宇合(式家の祖) →奈良時代に権勢を振るう
   (d) 麻呂(京家)
  B.長屋王の変後の動き → 長屋王の変は藤原四兄弟の謀略
   (a) 武智麻呂、大納言に任ぜらる
   (b) 光明子(不比等の娘)を聖武天皇の皇后とする
   (c) 年号を「天平」にかえる
  C.天然痘の流行(737) → 藤原四兄弟の相次ぐ病死
 (5) 橘諸兄の政治 (737〜757)   …→橘奈良麻呂の変(757)
  A.橘諸兄(皇族出身)…吉備真備・玄ム(唐から帰朝)を任用
  B.藤原広嗣の乱(740)…遷都、国分寺国分尼寺建立、大仏造立の原因
    ※広嗣=宇合(式家)の子、大宰小弐として左遷
   (a) 吉備真備・玄ムの排除が名目、背景には飢饉と疫病あり
   (b) 大宰府で管内の兵1万人を動員して反乱  →大将軍大野東人を派遣、兵17,000人で2ヶ月後に鎮圧
  C.あいつぐ遷都(740〜745)    ←聖武天皇(位724〜749)
   ※平城京→恭仁京(740・山城)→難波宮(744・摂津)→紫香楽宮(744・近江)→平城京(745)
  D.国分寺建立の詔(741、続日本紀)  ←聖武
   (a) 国ごとに国分寺(金光明四天王護国寺)、国分尼寺(法華滅罪寺)を設置
   (b) 金光明最勝王経と妙法蓮華経を1部ずつ写経 鎮護国家思想
   (c) 国分寺20人・国分尼寺10人の僧の配置、七重塔・丈六の釈迦像を設置
  E.盧舎那大仏造立の詔(743、続日本紀) ←聖武
   (a) 紫香楽宮で詔を発す → 紫香楽宮で造立開始、遷都で中止 → 平城京で再開(746)
   (b) 盧舎那大仏開眼供養(752) =孝謙天皇の時代
    ・出席者…孝謙天皇、聖武上皇、光明皇太后の他、文武百官、僧侶1万人、導師は菩提
  F.墾田永年私財法(「天平十五年五月二十七日の格」、743、続日本紀) ←三世一身法の失敗
   (a) 永久に収公しない → 公地公民制の放棄 → 初期荘園の成立
   (b) 開墾は貴族や寺院に有利
    ・開墾には国司の許可が必要
    ・3年以内に開墾を終了…開墾用の鉄製農具を持たず、農業の片手間に開墾する庶民は不利
       鉄製農具…貴族:季禄などとして現物支給、寺院:寺院内の工房で生産可能
    ・位階別に開墾面積を規定 ←位階の上の者ほど大幅に多い
       例:500町(親王の一品および一位)〜10町(初位以下および庶民)
 (6) 藤原仲麻呂の政治 (749頃〜757〜764)  →藤原仲麻呂(恵美押勝)の乱(764)
  A.橘諸兄と藤原仲麻呂の対立(749〜757)    ※仲麻呂=武智麻呂(南家)の子、光明皇太后の後ろ盾
   (a) 養老律令の施行(757.5)…40年間放置されていた養老律令を施行=藤原氏の点数稼ぎ
   (b) 橘奈良麻呂の変(乱)(757.7)…未然に発覚、奈良麻呂(橘諸兄の子)は刑死
  B.藤原仲麻呂の政治(757〜764)
   (a) 淳仁天皇の即位(758)、孝謙は上皇となる  ←仲麻呂の傀儡
   (b) 仲麻呂、恵美押勝を名を賜る →太師(太政大臣)となる(皇族以外で初)=光明皇太后の後ろ盾
   (c) 仲麻呂の政策
    ・唐風官司名への改称
    ・公民の負担を軽減…雑徭を30日に半減、東国からの防人を廃止、運脚に食料・医療の支給
    ・軍事態勢の強化…陸奥に桃生城、出羽に雄勝柵の設置(759)、新羅遠征を計画(計画のみ)
  C.藤原仲麻呂(恵美押勝)の乱(764)…孝謙上皇の寵愛を受けた道鏡をの除こうとして蜂起、近江で敗死
 (7) 称徳と道鏡の政治 (764〜770)
  A.仲麻呂の乱後、孝謙上皇の重祚、称徳天皇となる(764)
   (a) 淳仁天皇は淡路に配流(淡路廃帝)
  B.道鏡の権勢 ←称徳天皇の寵愛
   (a) 少僧都(763) → 太政大臣禅師(765) → 法王(765)
   (b) 宇佐八幡神託事件(道鏡天皇の位を望む) → 藤原百川・和気清麻呂の阻止(769)
    ・清麻呂は大隅に流罪 → 道鏡左遷後、復活
   (c) 称徳天皇の死、光仁天皇の即位(770) → 薬師寺(下野)の別当として左遷
 (8) 光仁天皇の政治 (770〜781)
  A.光仁天皇の即位  ←藤原百川(式家)・永手(北家)が擁立
   ※光仁(天智の孫)…即位時62歳、皇統が天智へ返る(壬申の乱以来)
  B.道鏡の左遷、和気清麻呂の呼び戻し
  C.財政引き締め、律令制度建て直し策の実施
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 ■3.班田収授制の崩壊


1.公地公民制の崩壊
 (1) 過重な班田農民の負担
  A.過大な負担
   (a) 庸
   (b) 調
   (c) 運脚による京への輸送
   (d) 雑徭
   (e) 兵役(食料・武器自己負担)
   (f) その他の負担…都・宮殿・離宮の造営
   (g) 公出挙の拡大…貧民救済から強制貸付へ
     1国につき40万〜1万束を出挙とし、利息を国府の財政に充て残額を国司の俸給とす(745)
  B.班田農民の対応
   (a) 乗田(班田収授実施後余った口分田)の賃租(地子は収穫高の1/5、1年契約)
   (b) 偽籍…性別を偽る ←課役を負担しないための方策
   (c) 浮浪・逃亡    ←課役を負担しないための方策
   (d) 私度僧      ←課役を負担しないための方策
 (2) 政府の財源不足
  A.口分田の荒廃、班田農民減少 → 庸・調の滞納、品質の低下 → 政府の収入不足
 (3) 寺院・貴族の繁栄
  A.山野の占有
  B.浮浪・逃亡農民の収用(その農民を使っての耕作、開墾) → 荘園経営の下地となる


2.政府の対策とその後
 (1) 政府の対策
  A.百万町歩開墾計画(722(養老6))=長屋王 →無理、失敗
   (a) 要因…口分田の人口増加による不足、逃亡・浮浪による荒廃
     ※70万町歩(奈良時代)→163万町歩(慶長期(秀吉の頃))→300万町歩(明治初期)
  B.三世一身の法<「養老七年四月十七日の格」>(723(養老7)、続日本紀)=長屋王 →うまくはいかない
   (a) 新しい灌漑施設をつくって開墾した者…三世(子、孫、曾孫)まで保有(収公しない)
     ※三世については本人、子、孫という考え方もあり
   (b) 古い灌漑施設を修理して荒廃地を復興した者…当代一身(一代)のみの保有(収公しない)
  C.墾田永年私財法<「天平十五年五月二十七日の格」>(743(天平15)、続日本紀)=橘諸兄ら
   (a) 要因…三世一身法の不成功
    ・墾田永年私財法には収公の期限が近づくと耕作を怠けるとの旨が記されている
   (b) 内容
    ・墾田については永久に収公しない → 公地公民制の放棄
    ・開墾は貴族・寺院に有利…ふつうの班田農民では開墾は事実上不可能
      開墾には国司の許可が必要
      3年以内に開墾を終了…開墾用の鉄製農具を持たず、農業の片手間に開墾する庶民は不利
        鉄製農具…貴族:季禄などとして現物支給、寺院:寺院内の工房で生産可能
      位階別に開墾面積を規定 ←位階の上の者ほど大幅に多い
        例:500町(親王の一品および一位)〜10町(初位以下および庶民)
         ※墾田は輸租田(租を収める必要あり)
   (c) 結果…貴族・寺院・地方豪族 農民・浮浪者を使用して開墾  →初期荘園の成立
  D.墾田の規制(765(天平神護1))…道鏡による墾田開発の規制、不徹底な内容
   (a) 墾田永年私財法の撤回…貴族・寺院・地方豪族の墾田拡大競争で班田農民の生活が圧迫
   (b) 寺院の開墾や、小規模開発は容認
  E.墾田永年私財法の復活(772(宝亀3))
   (a) 位階による開墾面積の制限の撤廃  → 墾田開発は一層進行
 偽籍・浮浪・逃亡
 ◇偽籍…戸籍・計帳に虚偽(性別、年齢)を記載
      女性の激増 ←例:90人中、女子79人(常陸国戸籍断簡、764or770)
 ◇浮浪…本籍地から他国へ流浪するが、所在が明確で、課役(庸・調)を納めるもの
 ◇逃亡…本籍を離れて他国に居住し、課役(庸・調)を納めないもの
      例:正丁の19%(課役のある正丁42人中8人)逃亡(山城国出雲郷雲上里
       ・雲下里、726)
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 ■4.天平文化


1.天平文化の特徴
 (1) 時期…8世紀半ば前後(奈良時代)、中心的人物:聖武天皇
 (2) 特徴
  A.高度な貴族文化 ←中央集権国家体制の確立による富の集中
  B.盛唐の文化の強い影響、豊かな国際性 ←遣唐使の派遣
   (a) 都城制
   (b) 4文字年号の採用年号(天平感宝・天平勝宝・天平宝字・天平神護・神護景雲)、など
  C.仏教文化


2.古事記と日本書紀
 (1) 歴史・地理書の編纂の背景…国家成立の由来、天皇支配の必然性・妥当性の説明
 (2) 国史編纂の流れ
  A.「帝紀」「旧辞」の編纂(5世紀末〜6世紀初め)     →現存せず
  B.「天皇記」「国記」などの編纂(620)=聖徳太子の時代 →現存せず(蘇我蝦夷ともに大半焼失)
  C.天武天皇の修史事業、「帝紀」「旧辞」の整理(681)  →記紀の完成へ
 (3) 記紀
  A.「古事記」(3巻、712完成)
   (a) 神代〜推古天皇(628)
   (b) 「帝紀」(皇統譜)、「旧辞」(宮廷の古い伝承)のみを扱う(天武自身が検討)
   (c) 稗田阿礼が誦習(暗唱) → 太安万侶(太安麻呂)が撰録(筆録)
   (d) 歌謡・固有名詞など日本語音を漢字で表現、古伝承を忠実に記録
  B.「日本書紀(日本紀)」(30巻、720完成)…漢文、編年体による正史
   (a) 神代〜持統天皇(697)の記録、以後の歴史は「続日本紀」に
   (b) 舎人親王が編纂の中心(天武は川島皇子に命じた→舎人親王)
   (c) 「帝紀」(皇統譜)、「旧辞」(宮廷の古い伝承)、諸家の記録、外国の史料を扱う
   (d) 漢文、編年体  ←中国の史書の体裁
   (e) 国家事業として継続(10世紀の初めまで計6種)  →六国史
 (4) 「風土記」
  A.各地の地理・産物・伝説などを撰上する詔(713) → 風土記作成 →なかなか進捗せず
  B.現存する風土記…出雲(ほぼ完全)、常陸、播磨、豊後、肥前(五風土記)


3.漢詩文と和歌
 (1) 漢詩文  →平安初期(弘仁・貞観文化期まで盛ん)
  A.貴族の教養として重視  ←中国文化の影響大
  B.淡海三船・石上宅嗣が著名      ※石上宅嗣は日本最初の図書館である■(うん)亭を設立
  C.「懐風藻」(1巻、751)
   (a) 現存最古の漢詩集
   (b) 皇族・貴族ら64名、編者は淡海三船?
   (c) 六朝〜初唐の詩風
 (2) 和歌
  A.詩型の完成…五音七音が基本 ←漢詩の影響
   (a) 短歌…五、七、五、七、七
   (b) 長歌…五、七、五、七、…(五)、七、七  +反歌
   (c) 旋頭歌、仏足石歌など
  B.時代による作風の違いと著名人
   (a) 第1期(天智天皇時代まで)…有間皇子、額田王
   (b) 第2期(平城遷都まで)…柿本人麻呂
     → 第1期・第2期:心情の素直な表現
   (c) 第3期(天平年間のはじめ)…山上憶良、山部赤人、大伴旅人
   (d) 第4期(淳仁天皇時代まで)…大伴家持、大伴坂上郎女
     → 第3期・第4期:個性的な歌
  C.「万葉集」(20巻、780頃)
   (a) 4500首、仁徳〜759年まで、撰者は大伴家持?
   (b) 長歌・短歌・旋頭歌など
   (c) 万葉がなの使用…漢字の音で日本語を記述
    ・平安時代に平仮名に発展
   (d) 広い階層の作者 →東歌、防人の歌(地方農民の素朴な感情)
 (3) 教育制度
  A.目的…下級官人の養成(上級官人は蔭位の制で再生産)
   ※五位以上の子弟は大学などには実際には通う必要はない(蔭位の制の存在)
  B.教育機関
   (a) 大学(式部省大学寮)…中央に設置
    ・五位以上の有位者の子弟、東・西史部の子など
    ・大学 → 卒業 → 国家試験
   (b) 国学…地方に設置(諸国に1つずつ)
    ・原則として郡司の子弟(欠員があれば庶民の入学も可)
  C.研究機関・専門技術者養成機関…中央に設置
   (a) 陰陽寮…陰陽道、暦、天文
   (b) 典薬寮…医、薬、まじない
六国史一覧    ※「正史」…国家による国家の歴史書、漢文、編年体
書  名 巻数 内容の範囲 成立年代(天皇) 編 者 備   考
日本書紀(日本紀) 30 神代〜持統 720(養老4)・元正 舎人親王 奈良時代以前全般
続日本紀 40 文武〜桓武 797(延暦16)・桓武 藤原継縄 奈良時代の基本資料
日本後紀 40 桓武〜淳和 840(承和7)・仁明 藤原緒継 平安初期の基本資料
続日本後紀 20 仁明(1代のみ) 869(貞観11)・清和 藤原良房  
日本文徳天皇実録 10 文徳(1代のみ) 879(元慶3)・陽成 藤原基経  
日本三代実録 50 清和・陽成・光孝 901(延喜1)・醍醐 藤原時平 「延喜の治」の1要素


4.国家仏教の発展
 (1) 奈良仏教の特徴と発展
  A.鎮護国家のための仏教…国家(ための)仏教であって、民衆の仏教ではない
   ※「鎮護国家」…仏教(信仰によって生まれる呪力)で反乱などを鎮め、外敵などから国家を護るの意
   (a) 一般民衆を対象にした布教活動は禁止…例:行基への弾圧
   (b) 仏教に対する保護と統制
  B.国家の保護
   (a) 官立の大寺(政府経営の寺院)の建立
    ・南都七大寺(薬師寺、大安寺、興福寺、元興寺、東大寺、西大寺、法隆寺)
      薬師寺、大安寺(旧大官大寺(百済大寺))、元興寺(旧法興寺)は藤原京から移転
      東大寺、西大寺は平城京に新築
   (b) 国分寺・国分尼寺の建立(741)…国分寺建立の詔(741、続日本紀) ←聖武天皇
    ・国ごとに国分寺(金光明四天王護国寺)、国分尼寺(法華滅罪寺)を設置
    ・金光明最勝王経と妙法蓮華経を1部ずつ写経
    ・国分寺20人・国分尼寺10人の僧の配置、七重塔・丈六の釈迦像を設置
   (c) 盧舎那大仏(東大寺)の造立(743)…盧舎那大仏造立の詔(743、続日本紀) ←聖武天皇
    ・紫香楽宮で詔を発す → 紫香楽宮で造立開始、遷都で中止 → 平城京で再開(746)
    ・盧舎那大仏開眼供養(752)…孝謙天皇の時代
      出席者…孝謙天皇、聖武上皇、光明皇太后の他、文武百官、僧侶1万人、導師は菩提僊那
    ・行基の協力
   (d) 百万塔、百万塔陀羅尼経  ←称徳天皇(恵美押勝)
    ・百万塔…木製の三重小塔、内部に陀羅尼経を納める
      100万基製作、近畿の十大寺に10万基ずつ奉献、法隆寺に約1万基遺存
    ・陀羅尼経…陀羅尼とは善法を守り、悪法をさえぎる章句、世界最古の印刷物
   (e) 寺田(不輸租田)の給付
  C.国家の統制
   (a) 出家の制限、官許のない出家の禁止(僧尼令)
    ・私度僧の大量発生(僧は課役(人頭税)免除) → 僧侶の質の低下…鑑真の来日意義
   (b) 民間布教活動の制限 ←国家のための仏教であって、民衆のための仏教ではない
    ・例:行基への弾圧  → のちに大仏建立に協力して大僧正となる
      行基の社会事業…架橋6、池15、布施屋(運脚夫宿泊施設)9
  D.学派としての宗派…宗派は教団ではなく、経論を研究する学派である(鎌倉時代とは異なる)
   (a) 南都六宗(三論宗、成実宗、法相宗、倶舎宗、華厳宗、律宗) →六宗兼学
    ・著名な人物の専門
      旻・聖徳太子(成実宗)、道昭・義淵・玄ム・道慈・行基・道鏡(法相宗)、玄ム(倶舎宗)、
      良弁(華厳宗)、鑑真(律宗)
    ・大乗仏教系(三論宗、法相宗、華厳宗、律宗)、小乗仏教系(成実宗、倶舎宗)
   (b) 寺院…僧侶養成所であり、仏教研究所
 (2) 社会事業
  A.光明皇后
   (a) 悲田院…孤児や病人の収用、左右両京に設置
   (b) 施薬院…薬を施す、病気の治療
  B.和気広虫(法均尼)   ※和気広虫…和気清麻呂の姉
   (a) 孤児の養育
   (b) 恵美押勝の乱の連座者への減刑嘆願
 (3) 仏教の腐敗
  A.寺院造営費の増大(国分寺建立、大仏造立など) → 国家財政の窮乏
  B.大寺院の寺領の増大 → 公地公民制の崩壊
  C.僧侶の政治介入(例:道鏡など)
 鑑真の来日
  ◆来日の理由
   ・私度僧の増加
   ・戒律を守らない僧侶の増加
        →授戒(戒律を授ける)の必要性→鑑真(律宗の専門家)の招来
  ◆渡航…5回の渡航失敗(1回は海南島→盲目になる)
  ◆日本での活動
   ・唐招提寺が活動拠点
   ・東大寺に戒壇院を設置  →天下三戒壇の設置
   ・唐招提寺にも戒壇院を設置(東大寺での練習用)
       ※天下三戒壇…東大寺、観世音寺(筑紫)、薬師寺(下野)


5.天平の美術
 (1) 建築
  A.特徴…雄大(力強さ)、均整
  B.建築例
   (a) 東大寺
    ・東大寺法華堂(三月堂、740〜750)
      鎌倉時代に礼堂を追加…奈良時代の寺は野外から、鎌倉時代以後の寺は床の上で拝む
      不空羂索観音像(脱乾漆像)、日光菩薩像・月光菩薩像(塑像)、執金剛神像(塑像)
    ・東大寺転害門…数少ない創建当時の遺構
   (b) 唐招提寺…唐招提寺は鑑真の私寺、鑑真はここに戒壇を設置(現在は礎石のみ)
    ・唐招提寺金堂(770)…鑑真の死後建立、柱にはエンタシスが残る
    ・唐招提寺講堂…平城宮の東朝集殿を移築改造(切妻→入母屋)、平城宮官庁の唯一の遺構
   (c) 新薬師寺…新薬師寺は光明皇后が建立、薬師寺とは無関係
    ・新薬師寺本堂…食堂を改造
      薬師如来像(木像、平安初期)、十二神将像(塑像)
   (d) 法隆寺
    ・法隆寺夢殿(739)…東院、聖徳太子の威徳を忍ぶ、旧斑鳩宮跡に建立
      救世観音像(木像、飛鳥時代)
    ・法隆寺経蔵(720〜730年代)
    ・法隆寺伝法堂…奈良時代の貴族の邸宅を知る唯一の遺構(橘夫人の邸宅を改造)
   (e) 正倉院宝庫…校倉造(南倉・中倉・北倉)、聖武天皇遺愛品の奉献(756)
 (2) 彫刻
  A.乾漆像・塑像の登場  ←大仏造立による銅の不足
   (a) 乾漆像…漆と麻布
    ・木心乾漆像…木で大体の形を造形→麻布を漆で接着→仕上げ
    ・脱乾漆像…粘土で造形→麻布を漆で接着→粘土の取り出し→木枠で保持→仕上げ
   (b) 塑像…粘土
    ・木の心棒に(荒い)粘土を付ける→表面を細かい粘土で仕上げ→彩色or漆箔
  B.特徴…写実的  → 鎌倉文化に影響(鎌倉仏も写実的)
  C.仏像例
   (a) 東大寺
    ・東大寺法華堂不空羂索観音像(脱乾漆像)
    ・東大寺法華堂日光菩薩像・月光菩薩像(塑像)…日光菩薩、月光菩薩は薬師如来の脇侍
    ・東大寺法華堂執金剛神像(塑像)…秘仏のため保存がよい
    ・東大寺戒壇院四天王像(塑像)…持国天(東)、増長天(南)、広目天(西)、多聞天(北)
       ※天とは仏教に取り込まれたインドの神、仏法を保護する
   (b) 興福寺   →藤原氏の氏寺となる
    ・興福寺八部衆像(脱乾漆像)…阿修羅像がとくに有名
    ・興福寺十大弟子像(乾漆像)…富楼那が有名
   (c) 唐招提寺…鑑真の私寺
    ・唐招提寺金堂盧舎那仏像(脱乾漆像)…760〜770年の作
    ・唐招提寺鑑真和上像(脱乾漆像)…仏像ではない、鑑真の肖像彫刻
   (d) 新薬師寺
    ・新薬師寺十二神将像(塑像)   ※十二神将は薬師如来の眷属
   (e) 聖林寺
    ・聖林寺十一面観音像(木心乾漆像)…奈良時代末期
 (3) 絵画
   (a) 正倉院鳥毛立女屏風…中国風の美人画像
   (b) 薬師寺吉祥天画像…中国風の美人画像
   (c) 過去現在絵因果経…最古の絵巻物
 (4) 工芸
   (a) 法隆寺大仏殿八角灯篭
   (b) 大仏蓮弁毛彫
   (c) 正倉院の宝物 ←ローマ、ペルシア、インドの影響
    ・螺鈿紫檀五弦琵琶
    ・平螺鈿背八角鏡
    ・碧瑠璃杯
    ・鳥毛立女屏風、など
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